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2004年9月19日

 

この日は、自分にとって第二の誕生日とも言える記念すべき日であり、老い先短い田舎の年寄りが周囲の心配をよそに、念願のそば処 千寿庵 を開店させた日なのである。

 その昔、毎晩のように婆さんから食べさせられた黒く太く短いそば、そばネッケ、そば団子等あの時の思いが忘れられなくて、玄そばを磨き手間暇かけて自分好みに製粉し、近くの干咾不動尊の湧き水を使用し、昔の香りと風味をそのままに今の人たちにも食べやすいように細めに仕上げた千寿庵のそばは、程よい弾力と噛む事によって口の中一杯にそばの香りを楽しむ事が出来ます。

 田舎のそば処「千寿庵」にお越しをいただき、是非一度御賞味を賜りますようお願い申し上げ開店のあいさつといたします。

 

2004年12月19日

 

一喜一憂………

こんな言葉が国語辞典にあったことを思い出す。

今まで趣味道楽的な感覚でそば打ちを楽しんできたのが、一軒の店を構え営業という形態になった今、開店案内状の一文に入れた「老後の楽しみを求めて……」

なんていうきれい事は上の空となった。

 開店して3ヶ月を過ぎた今、予想もつかない事があまりにも多すぎて、60路を越えての客商売を始めた事に後悔の念さへ覚える時がある。しかしその時、子供の頃食べたあの“そばの香り、味わい”を求める強い気持ちがあったからこそこの道に入ったのだと、思いがわき起ると、そんな弱気はどこかへ吹き飛んでしまうのだ。

そばの実の選り別けから始まって茹で上げるまで、自分の深い気持ちが込められて出来上がったのが「千寿庵」のそばであり、甘味と香りはあの時のそのまま受け継ぎ、口にする事によって、子供の頃を思い出すものと信じている。

そして、そのそばに添える季節の野菜は、我と40年連れ添った家内が、漬物や煮物として提供し、田舎のおふくろの味そのままに、一服の清涼剤となりましょう。

 

2005年1月1日

 

年末から降り続いた雪は、元旦の朝には周囲を真っ白く化粧させ、空の青さと雪の白さが平成17年の幕開けに希望をもたせるものだった。

白は清廉潔白そして新しく生れ変わる意味をもつと言う。

65歳を迎えたこの年寄りに「頑張れよ!!」と天の神様も励ましてくれたのだなと思うと、

嬉しく感じると同時に「精一杯心をこめてそばを打つぞ」と、元旦の朝日に向かって手を合わせ生きている事の喜びを天に感謝した清々しい初春であった。

 

2005年27

 

我が恩師、蕎麦打ちに挑戦。

今から45年くらい前、私は地元村田高校夜間部の学生であった。当時の恩師、八巻先生に教えを受けていた、紅顔可憐で真面目な?学生であった。学友宅や恩師の下宿宅で、農家の伝統行事の保存継承について話の花を咲かせたものだった。恩師の八巻先生はすでに定年で教職を離れ、現在は民生委員として、老人福祉部会の長として地域福祉の先頭にたって活躍されている。今回、会員の懇親会として蕎麦打ち体験教室を催していただいた。その実は、教え子を心配しての心配りと思うと、いつしか私の手も震えていた。懇親会に私も加えていただき、盃を重ねるうちに、何がなんだかわからなくなってしまった。

2005年218

 

立春を過ぎたとはいえ、16日に降った大雪の名残があちこちにまだ残っている。

今日も真冬に戻ったような寒さだ。暖簾を上げてはみたものの雪のためか車の往来もわずか。お昼前後に数人のほかは、客足はさっぱり。午後3時も過ぎ、空を見上げればまたもや降り出しそうになってきたので、暖簾を下げようと玄関に向かった。その時1台の車が入ってきて、孫娘みたいな若い二人連れが遠慮がちに入ってきてくれた。思いがけないお客さんにうれしくなり、今まで談笑していた馴染みの農機具屋さんをそっちのけして、ストーブの傍の椅子をすすめ、いつしかストーブを囲んでのお茶会になってしまった。外は雪、体が冷え込んでいても、ストーブの暖かみは人の心を和ませ、身も心も温かくしてくれるものだ。

今日のお客さんは少なかったが、100人以上のお客さんより嬉しく思った1日だった。

2005年31

 

例年になく寒く、又雪の多かった今年の冬のある日、ふと思い立って向かいの山に登ってみた。久々のことで息が乱れる。呼吸をととのえつつ振り返って我が家、千寿庵を眺めてみた(写真中央赤い屋根)。所々に残雪はあるものの、春の足音を身近に感じる事が出来た。わき立つ雲、かすむ山の端。足元をみれば、福寿草が春の訪れをつげているようであった。

「今年もそろそろ農作業の準備もしなくてはなあ。そして蕎麦はもちろんの事、おいしい野菜をいっぱい作って、おいでになった皆様方にも食べてもらいたい」

そんなことを思いながら、愛用のカメラのシャッターをきった。

(後日談、この3日後に30cmの大雪が)

2005年3月22日

 

「寒晒し蕎麦春祭り」……

不安な気持で迎えた催しであったが、終わってみれば多くの皆様の暖かいご支援に感謝、

感謝の3日間であった。冷たい川に晒し、天候不順に悩みながら乾燥させた玄そば。

精粉してみると、今までにないに黒っぽい粉に仕上がったが、それ以上に香りもいい。

しかし、香りはしてもつながりが悪く、人前に出すのがちょっと恥ずかしいそばだったが、「そばは切れても、心は切れぬ」お客様の温かい励ましの言葉に後押しされながらの3日間。

その中でも特に嬉しかったのは、先だってのそば打ち教室の八巻先生が孫共々家族あげての来訪、そして50何年ぶりで小学校5年当時の先生二人が同級生と来てくれた事。90歳からなる先生お二人が、そばを一本一本かみしめながら、最後まできれいに食べていただいたお膳を見た時には、こみ上げてくるのを抑えることができなかった。今から半世紀昔の出会いにもかかわらず、教え子を気遣う教師の心を思う時、近頃「仰げば尊し」が余り歌われなくなったことは残念、かつ悲しいことだ、と嘆くのは私だけであろうか?と真剣に考えてしまった。とにもかくも、そばを通して多くの皆さんから暖かい心をいただいた3日間、ありがとうございました。

2005年4月5日

 

清明を過ぎると我がふるさとも日一日と春らしさを感じるようになる。千寿庵から村田町内に向かう途中の峠から奥羽山脈の方を見渡してみた。蔵王連邦も山頂付近はいまだ白く雪が残っているが、裾野のほうはすっかり雪も解けている。下に白っぽく見えるのが村田インター付近、左の方は工業団地だ。相山公園の桜が見ごろになるのはもう少し先かな?我が家の庭先では春ラン・カタクリ等、そして田んぼの土手にはよもぎ等、例年より一週間程度遅くなって咲いた。4月も半ばになると一斉に桜が咲きほころび、いよいよ春本番を迎える。春の陽気に誘われて、我が千寿庵にも本当のそばの味を確かめに多くの方に来てほしいものだと思う。蕎麦の味わいを噛みしめてもらったお客さんとストーブを囲んでのお話は、私にとって最高の楽しみであり、一日の疲れを癒すひと時でもあるのだから。

 

2005年5月6日

 

昨日までの3日間、「そば三兄弟まつり」には、多くの方々にお越しいただきました。私達が子供の頃、蕎麦はご飯がわりの日常茶飯事に出されるごく普通の食べ物でした。

いつしか時代は移って、何か物珍しさにもてはやされるようにTVや雑誌にも頻繁にとりあげられ、“蕎麦の食べ歩き”や“蕎麦へのこだわり”など、蕎麦を話のネタにする人が多くなったと思います。昔の思いからすればやっと陽の目をみたと言うか嬉しい事だと思いますが、「田舎の蕎麦処 千寿庵」の蕎麦は、“喉ごしの良さ”とか“見た目の良さ”ではなく、かみしめて食べてこそ蕎麦本来の味わいがでる蕎麦です。真白い蕎麦は“喉ごしの良さ”とか“見た目の良さ”がとりえであり、だからこそよく言われる「ダシとかつゆ」とかを吟味しなければ、食べられないのではないかと私は思うのです。今回の「そば三兄弟まつりは」は、田舎蕎麦の味わいと「旬の香りのよもぎ」、見た目に華麗さを感じる「紅花」との、味と香りと見た目の楽しさを味わってもらうべく企画してみました。人それぞれに味わい方は色々でしょうが、これからも田舎の蕎麦をベ−スにして、御膳粉に旬の香りを練り込み、それぞれの季節を楽しんでいただけるよう、今後も企画していきます。お越しいただいた皆様の忌憚のない声に耳を傾け、「田舎蕎麦」の味を活かしつつ、創意工夫を重ねていきたいと考えております。これからも宜しくお願い致します。

2005年5月14日

 

青葉繁る5月、ここ千寿庵にも、さわやかな5月の風が吹き抜けると同時に、山の青葉若葉の香りも風にのって飛んで来ます。家の周りにはつつじ、やまぶきなど色々な花が咲き乱れています。子供の頃に唄った「おぼろ月夜」とか「茶摘み」とかのメロディーを、口ずさみながら、生命を育む自然の偉大さを改めて感じてしまう。自分達の生まれ育ったふるさと、四季折々の香りがあり味わいがあるからこそ、一年365日が短くもあり楽しくもあり幸せを感じるのではないだろうか。昔「貧乏人は麦飯をくえ」と言われた時代があったその頃の家では、麦飯の代わりに時々黒く太いそばをたべさせられたものだ。よく噛まないと喉を通らなかったのを思い出す。そしてその頃のラジオの落語番組で「蕎麦ってえものはですな、タレを蕎麦の先っちょに少しつけて、つるつるとススルものですな」なんてしゃべっていたものだから、「蕎麦は喉ごしが良く食感も良くタレがよくなければダメだ」と言う一般的な概念が出来上がったものと思う。東北で昔から食べられていた蕎麦は、折角収穫したそばを無駄にしない意味においても、又栄養的な面でも田舎の挽きぐるみの蕎麦は優っていると思うのです。子供の頃の懐かしさを思い出させてくれるのが、田舎の挽きぐるみの黒っぽい粉の蕎麦であり、よく噛みしめると、何とも言えない香りと甘みを感じ、悪条件の下でも強く育った蕎麦への思いを尚一層熱くし、精粉するのにも、蕎麦を打つのにも自然と手に力が込められていくのです。

2005年5月19

 

この日は父が亡くなって7年目の日である。60歳中頃から20年近くの闘病生活であったが、愚痴をこぼさず気分の優れたときには竹箒を作り、年の瀬近くには注連縄つくりを教え、また地域に古くから伝わる伝説などを多くの人たちに語り聞かせ、自分なりに精一杯生きぬいた父の姿だった。若い頃には炭焼きで生活費をかせぎ、山間の田畑を母と二人でモッコを担いで大きく広げ、やがて尺角の欅や松などの材料で自宅を新築。しかし喜びも束の間、古い家からの出火延焼で、新築したばかりの自宅は屋根が焼け落ち、内部は黒こげとなった。わずかながら骨組みの大部分が残ったので、農作業場として再利用を図り、我が家の再建に歯をくいしばった父の姿が目に浮かぶ。現在千寿庵と名づけたこの建物は、自分の代になってうまれかわること3度目。随所に残る焼け焦げ、そして農作業場として使用したときの名残が落書きとして今に残っている。昭和59年1月15日曇りと日付が書かれ、ドラエモンやたくさんのねずみの絵が太い柱いっぱいに描かれてある。そして落書きした娘たちの名前。一際大きく消すなよと書かれてある。葉タバコの荷造り作業を手伝った娘二人の今に残る記念の落書きである。千寿庵には自分の中学卒業から65歳の今に至るまでの色々な事が込められており、今の千寿庵の姿を父に見せられるものならば見せたいものだと強く思う。亡くなる日の朝、自分の目を見つめやっと語った「ばあちゃんを頼む」の一言。昔は元気だった母も、今では要介護5の認定を受けすべてを我が妻の手によって毎日の生活を送っているのを見るにつけ、父の最期の一言はこうなる母の姿を予感したのだろうかと思うと、夫婦の絆と人の心の神秘さに胸打たれるものを感じた1日であった。

 

2005年6月1

 

今年の7月で満65歳。体力的な衰えなんて考えたこともなかったが、田植えの季節となり「さあこれからだ」という時に首から背中に掛けて痛みが走って動けなくなった。が毎日のそばだけは脂汗を流しながらも歯を食いしばって作ったものの、とても田植え作業なんて出来る状態ではなかった。見かねた会社勤めの息子から「俺がやる」と言われた時にはとても心配であったが、背に腹は変えられずやらせてみれば自分より軽やかにこなすではないか。「何時しか世代は自然と交替するのか…」「気持ちは若くとも歳には勝てなくなった…」とつくづく思う。今年は気候の移り変わりの激しい年だ。6月も中旬になると梅雨空となって毎日がうっとうしいジメジメした日が続くのだろう。晴天に恵まれた今日、田植えも終了したので、背中に痛みのリハビリもかねて町内やその辺の野山の風景を写真に収めた。

 

 

 

 

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