主のひとり言U

 

ひとり言其の九

 

ひとり言其の十

 

ひとり言其の十一

 

ひとり言其の十ニ

 

ひとり言其の十三

 

ひとり言其の十四

 

ひとり言其の十五

ひとり言其の十六

2012年2月22日

 

新年の挨拶を‥と思いつつも仕事を終えるとつい船を漕ぐ身に勝てず、いつしか二ヶ月も経過してしまった。遅まきながら今年も宜しくお願いします。そして、天に昇るといわれる龍の如く、今年こそは良い年であってほしいと願う。

昨年の大地震と大津波に加えて、人災ともいうべき原発事故によって、東北地方は目に見えない恐怖に、真綿で首をしめつけられる如く脅かされている。沖縄での子供向けのイベントに青森からの雪を使おうとしたら中止に追い込まれた、という記事が本日付けの地元紙に掲載された。これも想定外とか、直ちに影響は出ない、等という何か責任の所在がはっきりしない発表が根強く残っているからだと思う。

ある被災地の防災センターからは「高台に早く逃げて!早く避難して下さい!」と繰り返し繰り返しマイクをつかんで町民の多くの命を救ったという。彼女の責任ある行動は、天使の声として多くの人々の涙をさそった。むろん自分もその中の一人であったが、このような非常事態にあってこそ、それぞれの人間の姿が浮きぼりになって出るものだと思う。

復興の障害になっている被災地のガレキも、県外からなかなか受け入れてもらない現状がある。新聞やテレビには「絆」とか「心はひとつ」等の言葉が飛びかっているが、何かもう一つ上の空ような感じがしてならない。これらの嫌な事柄は、日本全国「心をひとつ」にして、良い方向に進みたいものだ、と龍の絵をみてそう思った。

今年の正月も、町中央公民館での顔合わせ会には、たまゆらのそば生産組合の手打そばを提供し、地区公民館での新年会には、参加者全員で今年の抱負を語り合った。

一年で最も寒いと云われる大寒の日、今年も後ろの川にそばを晒す作業を行なった。2週間ほど晒した後ガチガチに凍った川から引き上げ、立春のやわらかい陽ざしを受けながらの乾燥させていく。

その順調に進む作業をみたお客さんからは「今年は違うようだ、甘味が増すようだね」と声をかけられた。そのお客さんからの一声が、いつになく厳しい寒さにも負けない大きな励みとなって、寒晒しそばの仕込みに頑張れた次第である。

 

 

 

  ゛巡り来た  龍年数えて6回目  体力失せしも 広がる夢よ”

 

2012年3月26日

 

久し振りに朝からやわらかい陽射しだ。このごろの天気の変わりように体がついていくのも大変だが、朝食前今迄の色々な事を思い出してみた。

先月半ば過ぎ、3月1日我が母校の卒業式であるとの案内が届いた。50年以上も前に巣立った学び舎、若い時代の諸々の思い出がいっぱい故に懐かしく、今でも毎日の生きる事への原点ともなっている。そんな思いから、オーバンデスという番組に、古びた校舎の切抜き写真を貼付けたハガキを出し、3月1日に『仰げば尊し』を宗さんに歌ってほしいとお願いをしたら、おり返し2月29日に歌いますとの返事が届き、その日がくるのを一日千秋で待った。

情感たっぷりに歌い上げる宗さんの歌声に、懐かしきあの時代の思い出にひたる事が出来た。宗さんには、民話の里時代にそば打ちの指導をして頂いたことが今の自分に結びついている。そんな思いを常に心し、歌声に宗さんの心が込められているように、自分の打つそばには自分の思いを込めて打つ事を心がけている。

それにしても、毎日多忙な活動の中で小さな事にもすぐ応えて下さるその心に、『仰げば尊し』の歌声と共に思わず心を熱くした次第。

亡くなって久しいが父はよく言っていた。「地方で芸能活動が認められると、すぐ東京にばかり行く若者が多い中で、地元に残って芸能活動する宗さんは素晴らしい」と。

そばを打ち、ものを作る。どれもが人の手で行われるものだが、形よく作り上げる事は絶対的条件かも知れないが、作品(そば)を作るまでは多くの人の手を経ている事を常に念頭においている。その上で最後の仕上げには、自分の思いを一点集中して自分自身で納得するものを出している。

テレビから流れる宗さんの『仰げば尊し』を聞きながら、色々な想いにひたった2月29日の夕方であった。

 

 ゛学び舎と  仰げば尊し 今はなく ただ残れるは  我が胸の中 ゛

 

 

2012年4月23日

 

久し振りにゆっくり起きた。時計をみれば7時25分、外は静かに雨が降っている。

昨日は朝4時30分に起床、息子の力強い手伝いをもらい、雨や風を気にしながら今年の米作りの第一歩である苗代の設置を終了した。今年はいつになく寒い日が多く、農作業の目安としている種まき作業も桜がまだ蕾がかった程度、花見帰りのお客様も「寒いね」が開口一番の挨拶だった。

思うに、豊かな自然環境を破壊する原因の一つに生活を豊かにするが心の豊かさを伴わない科学の発展があるのではないか‥、特に原発は社会生活に大きく貢献しているかの如く宣伝されてきたが、昨年の3.11の大震災に加え想定外の名のもとに片付けられた原発事故。自然環境への汚染は図り知れず、いつ収束するのかもわからない不安の中で、事故の加害者である東電、そして監督すべき政府の発表には、最初から無責任そして国民に対するお詫びの込められた声は無く、ただ他人事の様に流すだけ、国民ひとしく安堵の胸をなでおろす人は何人いるのだろうか? 「直ちに影響は出ない」との発表とは裏腹に、広く静かに環境の汚染は広がり人々の不安は目に見えない形で広がっている。

言葉にはその人の思いが込められているのだと思う。先日電話があった。仙北浅水ふれあいセンターで催す「男の料理教室」の一端として、「そちらでそば打ちをしたい」との亊。事務局担当の小野寺さんとの電話応対での事。小野寺さんは標準語で話してくるから、こちらもたどたどしい標準語で接していたが、どことなく人の心を包み込むような温もりのある言葉に懐かしさを感じ、いつしかこちらはもって生まれた地言葉になってしまったが無事電話での打合わせ終了し、当日が来るのを待った。いずれもこの世を達観し得たような方々、笑いと和やかな雰囲気の中で打った世界でただ一つの自分のそばを食べながら、お互いの出来上がりぶりや反省の談義が交わされていた。そして最後は我が家の玄関前で、担当の小野寺さんを囲んで記念写真を撮らせていただいた。

 

 

 

 ゛みえずとも声で伝わる彼の思い  交わす言葉にふるさと香る ゛

 

2012年7月2日

           

南北に細長いわが国は、天候も自然の風景もそれぞれ趣が異なり、加えて四季折々の変化も素晴らしいの一言に尽きるのではないかと想う。

そんなある日の朝食時、家内が「昨日のそばで早く出したのは、黒っぽいし短く切れて見栄えも悪かった。」と言う。毎日のそば茹で作業の中で、少しでも違いを感じた時に自分に発する一言だ。

香りづけの割合か?玉練の時の水加減か? 同じ蕎麦打ちの繰り返しではあるが、目と鼻と手先の感覚だけが頼りの自分のそば打ち、直ぐに「ここだ!あれだ!」と特定できず、くもの糸をたどるように静かにご飯をかみしめた。

6月初旬、所属する団体の北海道旅行に参加。札幌の大通公園雪祭り、市内を見おろす大時計、白い恋人など明るさの漂うイメージを持っていたが、開拓の村見学では北海道を切り拓いた先人の苦労を目の当たりにした。昼食時のガイドさん、我々が「宮城から来ました」というと、懐かしさを込めて話をされてきた。なんでもご先祖様が亘理町出身という。懐かしいというその想いもなんとなく頷けた。当時の建物が何棟も移築保存されており、交番所の前では昔懐かしい制服姿のガイドさん、90歳近くとはとても見えない元気な声で我々を歓待。まるで久しぶりの再開を楽しむかのような、会話が絶えることのない雰囲気の中での見学だった。

寒さと飢えに加えて、賊軍の汚名を被せられるという二重三重の苦しみを克服して今の北海道を築いたのだ!という強い自負心が今も息づいていると感じると同時に、赤レンガ庁舎内の年配者ガイドさんからもその想いがヒシヒシと伝わってきた。

層雲峡の雄大さ、旭山動物園の広大さ、カニ食べ放題に満足。

小樽運河の静かな佇まいとは裏腹に、昔は鰊で栄えた港町も今は鰊も獲れなくなったが、かつての施設を活用してオルゴール館やガラス工房、菓子屋さんなどが軒を連ね多くの観光客で賑わっている。現在の姿になる過渡期にはどんな苦悩決断があったのだろうか?そんな想いをもって小樽を後にした。

 

 

 

“赤レンガ 飢えと寒さを吸い込んで 今に残せし 辛苦の証し”

 

 

2012年12月14日

           

近くに住む同級生が亡くなったとの知らせを受け、信じがたい気持ちで通夜から葬儀告別式に

参列した。「死」という現実に自分の歳を重ね合わせ、晴れやらぬ気持ちを紛らわすべく愛犬コロと朝の散歩にでかようとした時だった。私の手許を離れたコロは「弦を放れた矢」の如くあっという間に表へ飛び出して行った。いつもならすぐ戻って来るのだが、今朝に限ってなかなか帰ってこない。心配のあまり朝食もスムーズにのどを通らぬありさま。やがて家族が見つけたが、その時は自動車事故にあったかわいそうな姿であった。柴犬の雑種で素早い動きと人懐っこさでお客様からとても可愛がられていたし、自分の一日の始まりも、朝起きてコロと挨拶を交わすことであった。同級生と愛犬コロの死、この二重の晴れやらぬ気持ちを何かに打ちつけたい想いでペンをとった。

前回のひとり言から随分と間があいたが特に書き記したい事が二つある。

一つは何年か前に武者絵の凧を見てふるさと青森を思い出したと云う竹内さん。永く郵便局の局長を勤められた方で、自分が若い時分にお世話になった地元郵便局の局長さんと語る口調そして面影などが似通っている。お世話になった局長さんは八戸勤務が長かったというから、話す口調も同じだったのかもれない。そんな若かりし頃を思い出しながら時候の挨拶を交わし、そして色々と教えていただき感謝している次第。

それともう一つは、町商工会で毎年催す蔵の工芸市での出来事。

震災の影響で体育館で実施したが、被災地の復興応援の意味もあって石巻や雄勝町などからも出店や出品もあった。その雄勝町の方から声をかけていただいたのだが、自分はすぐに誰だったか思い出すことが出来なかった。実は大分前になるが、釜の火を止めて片付けようとしたその時に町内の知人とやってきた二人連れだった。なんとか間に合わせようと急いできたのだろうと思うと「今日は終了しました。時間は3時までです。」とはとても言えなかった。もう一度釜に火を入れ、湯の沸騰するのを待って茹でたてを差し上げたのだった。その時の事を話され、゛ああそういう事もあったんだ‥゛と思い起こした。

人間どこで、いつ、どういう出会いがあるか解らないものだ。人の一生なんて短いもの、その中での出逢いは一度であろうと二度であろうと大事にして全うしたい。

同級生73歳の死、そして15年間我が家の一員だったコロの死、二重の悲しみをこめながらのひとり言であった。

 

 

  ゛晴れやらぬ 気持ちはどこへ 向くのやら 同級生(とも)が先立ち コロが後追う゛ 

 

2013年1月8日

           

新年のご挨拶を申し上げます、とともに本年も宜しくお願い申し上げます。

“老いたる心一筋でそば打ちに励みたい”そんな気持ちでの元朝参り、2日には年賀の書き始めにそば粉の挽き始め、例年にない寒気のなかでそば打ちに対する我が想いをあらたにした。

5日には地区民有志による新年会、7日には町公民館主催による新春顔合わせ会に、たまゆらそば組合の一員として250食の手打ちそばを約30分で参会者一同に提供、今回もそば好きな方々からは好評をいただきホッと胸をなでおろした。

10日間の年末年始の休み、昨年の事を礎として新年に備え諸々のことに想いを広げると、次から次へと夢みたいな想いが身体中を駆け巡りあっという間に過ぎてしまった。

その休み中に嬉しい出来事があった。あの東日本大震災と原発事故いらい姿をみせなくなった相馬の村上さんご夫妻が「賜候(たまわりそうろう)」という銘酒持参で来店された。休業中だったし7日の前準備で忙しかったので立ち話のまま応対してしまった。ご夫妻のお元気な姿に胸のつかえがすうっと晴れるのと同時に安堵感にひたる事ができた。原発事故の難を逃れて、沖縄や新潟など各地を転々としながらようやく落ち着いたという。その夜は神棚に戴いた銘酒「賜候」を供え、家内と二人で村上さんご夫妻の無事を喜びあった。

 

  ゛安堵した 津波原発難のがれ 二年(ふたとせ)ぶりに すがたを拝み゛

 

2013年2月1日

                      

全国的に晴れという予報通り、朝から青空が広がる穏やかな二月の初日。蔵王山に抱かれたような村田町が朝日に輝く風景をカメラに収め、一月を振り返ってみた。

今年の冬は近年になく寒く、また雪も例年にないくらい降り積もっている。うしろの川も厚く結氷し、軒端には垂氷が連なってぶら下がっている。そんな中まだ明けやらぬ寒気をついてのそば打ち作業はさすがに骨身にこたえる毎日である。流れの少ない川は厚く凍っている為、今年は方針を変えて庭の片すみに大きな水槽三ヶを並べ、一杯に水を張ってその中に約100kgの玄そばを浸している。大寒の日から毎日水を入れ替える作業は身心共に冷え込む辛い作業であるが、苦労難儀が多ければそれだけ後々の喜びも又大きいものなのだ。

立春に引き上げ、やわらかな陽ざしと時折吹き荒れる春風とのくり返しを受けながら、約一ヶ月かけて自然乾燥させ精粉したものが、甘みのある独特な寒ざらしそば粉となるわけだ。昔、母や婆さんがつくった凍豆腐は、寒い夜に凍らせたものを朝早く藁で編んで軒端にぶらさげる事約一ヶ月。飴色に仕上がったあの凍豆腐の甘みのある感触は今でもはっきり覚えている。寒ざらしそばも同じ理屈であることに違いはないのだ。

13日は町の成人式、130余名が多くの来賓者の祝福を受けての門出であった。50年も前の自分達の頃は400人強の成人者数だった事を考えると、若い人が少なくなっているのは、郷土をそして国を支える土台が弱くなっていくのではないかと思うと素直に喜べない成人式だった。

14日は日中の大荒れの天気も夜には静かになった。地元のお不動様のどんと祭には、正月飾りの火吠えが天高く舞い上がり、今年一年の平穏無事を約束しているかのようだった。毎年この火吠えをみる度に、また一つ歳を重ねたのだと実感させられるどんと祭であった。

 

  ゛年重ね 又も近づくあの世とやらへ  俺もなるのか神か仏に ゛

 

 

2013年3月5日

                      

本日は啓蟄、春の暖かさを感じて虫が土の中から出てくるという。しかし、吹く風はどこか冷たく「春は名のみ風の寒さや」と思わず口ずさんでしまった。晒していた玄そばを立春に引き上げ、2週間ほど乾燥作業に取り掛かっていたが、この時はすずめ一匹近づかなかった。しかし乾燥した頃になると、どこにいたのだろうかと思う程の大群でやってきては玄そばをついばむのだ。そばが乾燥した頃が甘くておいしいということを、誰よりも雀達が知っていたのだ。

今年は寒く乾燥した日が続いたこともあってか、足が痛むと思っていたらアカギレが発生していた。「毎日米のあぶらを飲んでいるのに」と家内に言われたが、なってしまったものは仕方がない。

特効薬といわれるものを風呂上りにすり込んでみたが、厚い足の皮はなかなか元のようにはならない。方法を変えて、風呂上りにたっぷりの牛乳でアカギレ部分に丹念にすり込むことしばし。いつの間にか元のようになめらかな素足になった。

以前から風呂上りの時に、たっぷりの牛乳で手の平マッサージを満遍なくやっていた。そば打ち作業で伸ばした後の麺体を、手の平を使って最後の仕上げをする。だから手の平を感度良好なめらかにしておく必要がある。手の平が感じる細やかな作業、そしてそばに対する思いが、手の平を通じてそばに打ち込まれるのだと固く信じている。

先月末、大宮君がお姉さん御夫妻と来店した。

“アメリカへ帰る前に寒ざらしそばを食べたい”という。

しかし20日以降にしか出せない事を話して普通のそばを食べてもらった。そしたら次の日、“帰る前にもう一度食べたい”という姉の御主人のたっての願いで再び来店された。帰りの立ち話、自分と大宮君そしてお姉さんの会話に目を細めていた米国のご主人は、車に乗ると大きな笑顔をこちらに向けて何度も手を振って帰って行った。

食生活の違いにもかかわらず二日続けて来店し、アメリカへ帰っていく御夫妻に大きな力と夢を頂いたようなうれしい気持ちで、いつまでも見送っていた。

 

   ゛昨日きた 外国の人 今日も来て 笑顔ですすり 笑顔で帰る゛

 

 

2013年4月1日

                      

今日は日中の暖かさに誘われるように我家の四季桜が咲き始めたが、昨日は小雪のちらつく寒い一日だった。つくり置きのできない手打ちそば‥身内の法事だった為に昨日は臨時休業したが、先月は日曜ごとに法事や行事があり、真夜中の2時や3時に起きてのそば打ちは何かと大変だったが、来店して下さるお客様の顔を思い浮かべながら頑張った。

お彼岸の中日から提供を始めた寒ざらしそば、あるお客様から「マイルドな味わい」がすると声をかけられうれしい気持ちになったし励みにもなった。21日と28日には杉山先生の主宰する「みちのく民芸とそばの旅」の御一行様が訪れ、太打ちと細打ちの併せ盛りを食べていただいた。こちらからは渡辺の綱や姥の手掛石などの昔話で歓迎、それぞれ玄関前で記念の一枚を撮らせていただいた。詳しくは杉山先生の「みちのく民芸とそばの旅」をご覧いただければ各地の民芸とそばとの楽しい一時を過ごす事が出来ると思います。

4月から始まる宮城DCキャンペーンに併せて、民話の里へのおむすび丸の花植えに参加、そして3月30日には村田町の桜の名所である城山公園の清掃活動にも参加。この村田町に多くの方々が足を運び、そして我が家にもおいで下さる事を願って花植や公園の清掃に精出した次第。

 

 

   ゛人 繋く 来るを祈って さとびとが 植へしパンジー おむすび丸よ゛ 

                                                       

2013年8月5日

                      

今日は8月になって最初の定休日。早いものでお盆の月だ。しばらく更新もできずにいた5月から7月は何をしてきたのか?夢の中から記憶を拾い出してみた。

5月の田植時期は雨が降らず、水不足で作付不能となった田んぼがあちこちに見受けられた。しかし月が替わり6月後半から7月にかけては、必要以上に降り続く雨や突然の豪雨で、各地の被害は甚大なものだと云う。そんな自然の流れの中で苦心算段の末、我が家でも6月初めにやっと田植えを終了させて団体旅行に参加した。

大阪城やオリーブの島での「24の瞳」の教室などを見学していると、昔見た映画や50年も前の修学旅行を思い出した。

修学旅行出発の前日、バサバサの髪を丸坊主に刈り込んだ上に学生帽を被って、村高生の自覚とプライドで旅行を楽しんできた。下に大阪城見学記念の写真を掲載したみたが、中央右は校長先生とはっきり解るが自分は何処なのか。校長先生の後ろ右がそれだと思うがはっきりは解らない。その時大阪城をバックに写してもらった写真と50年後の写真を並べてみればその年月の流れに納得せざるを得ない。

又、村田高校の同窓会関東支部総会に出た時は、校歌やふるさとなどをハーモニカで吹いて昔の夜間部時代に思いをはせた。その時、どことなく見覚えのあるおばさんに声を掛けられたが、話し合っているうちにお互いに記憶の糸がほぐれ、昔の学生時代に戻ったような次第であった。

この集合写真の中にいたという事も何かの巡り合わせだったのか? そんな思いで小学生並みのハーモニカだったが天まで届けとばかりに吹き鳴らしてきた。

 

 

 

゛時移り 顔や姿は変われども 変わらぬは 昔学びし遊びの心゛

 

 

 

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