主のひとり言U

 

ひとり言其の九

 

ひとり言其の十

 

ひとり言其の十一

 

ひとり言其の十ニ

 

ひとり言其の十三

 

ひとり言其の十四

 

ひとり言其の十五

ひとり言其の十六

2013年9月19日

 

9月三連休の15日、16日は台風18号の影響で各地に大きな被害を残して過ぎ去っバた。被害に遭われた地域の方々には心よりお見舞いを申し上げますと共に、一日も早く元通りの生活に戻られることをお祈りしております。

今年も夏休みには札幌に転勤となった片山さんご夫妻がおいでになった。ちょうどあの頃の山形地方は大雨だったので、山形のそばを食べに行くことができず、尽きることのない世間話と我家のそばで殆どを過ごしたようなものだった。ただ、片山さんご夫妻が以前から可愛がってくれていた、我家の愛犬がいなくなってしまった事が何かしら寂しさを感じているようだった。保健所に依頼してから約3ヶ月経った8月19日、やっと子犬を家族の一員として迎えることができた。来年の夏休みに片山さんご夫妻がこられた時、どんな様子でこの子犬は迎えてくれるのだろうか?今から楽しみである。とても人懐っこく一度でも手をかけてもらったお客さんがくると、激しく尾を振って嬉しさを体全体で表すのだ。仲良しになった孫と子犬が遊ぶ様子をパチリと撮ってみた。

昨日18日は雲ひとつない青空に太陽が昇るのを待ち、遠く蔵王連峰を背景にそばの花一面の風景を収めたのでここに掲載したいと思います。お陰様で生育は順調、多くの皆様方に美味しい「たまゆらの新そば」を提供できる喜びで今から収穫を楽しみにしている次第です。

 

 

  ゛どこまでも 白く輝くそばの花 青いやまなみ(蔵王連峰)背中に受けて”

 

 

 

2013年12月20日

 

昨日今日は全国各地で大荒れ、寒波の天気でいよいよ冬本番の到来を思わせた。

一昔前のような穏やかな四季の移ろいはいつの間にか失せてしまい、急激な気温の変化や季節はずれの花が咲いたり‥「四季の唄」はいつしか「無季の唄」なるのではないか? と、そんな思いの今日この頃である。

毎年同じことの繰り返しではあるが、秋の布袋祭りや新そば祭りも忙しい中なんとか過ごすことができた。その「たまゆらの新そば」収穫を待って区長さんと相談して地区内のお年寄りの方々に集まってもらい、村田駐在のお巡りさんから身近におきた交通事故や送りつけ商法や振り込め詐欺の話など、被害にあわない為の内容で1時間ほどお話をいただいた。その後は参加したお年寄りの方々とお巡りさんも一緒になって新そばに舌鼓を打つ試食会を催した。警察の方々というと口調も硬く難しい用語を並べての話になるのでは‥と心配したが、今年話題となった「DJポリス」ではないがユーモアも交えて解りやすいお話に、区長さんと二人ホッと胸をなでおろし喜び合った。

秋も深まった勤労感謝の日、店のホームページを作成している弟が酒友グループと一緒に今年もやってきた。自分達の打ったそばと、我家の「そば千寿」と太目の「十割そば」をつまみに、おのおの持参した地酒を味わっていった。桜色に染まった顔でお腹をさすりながら「太目のそばは味も香りも良く私の特に気に入ったそばでした」と声をかけられたので、「太目のそばは麦飯と同じで噛めば噛むほど甘く美味しくなりますよ」とちょっとしたそば談義と相成った。記念にと玄関前で集合写真を撮った後近くの駅まで送っていったが、彼らの居たテーブルをみて「よくもまあこんなに飲んで食べたものだ‥」と思うほどタフな一行であった。

 

 

“太いそば 細目のそばも同じそば よく噛み啜り 腹におさめよ”

 

 

2014年1月19日

 

遅くなってしまいましたが、明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いします。

お不動さんへの初詣で出会った同級生3人と、お互いの健康をかみしめながら良き年であることを祈り、地区公民会の新年会、町恒例の新春顔合わせ会には“たまゆらのそば”でおもてなし‥

そんなふうにおだやかに迎えた正月も一週間が過ぎようとした7日夕方に電話が鳴った。

「千ちゃん 菅井君が亡くなった‥」

思いがけない突然の訃報にしばらく声もでなかった。知らせてくれた人も突然の死に信じられない様子であったが、取り急ぎ自分にも連絡をよこしたという。彼は中学校を卒業すると同時に地元の青年団活動で大変お世話になった人である。よその町から隣の農家に住み込みで働きに来ていたが、敬老会や蔵王登山、畑の実習地作業等にはいつも参加、また踊りも唄も上手で、なにより分け隔てなく人に対して面倒見もよかった。

菅井君のことは私の店のHPにも何度か登場している。『主のひとり言』の2009年9月28日では、地区の敬老会に花笠踊りで参加した若いときの菅井君が化粧した姿で写っているし、同じく2010年5月24日には菅井君一家が来店したときの事を、昔一緒に活動した時の記念写真を掲載しながら書き綴っていた。

あの頃はどこでも小指のように太いそば切りやそばネッケが日常の食事で当然であった。そのことからして菅井君が食べるそばはいつも太めの十割そばであった。また当時の畑の実習地作業や農家への住み込みだったことが、晩年の野菜作りに精をだす「畑のグループ」結成に繋がったのだと思っており当時の写真を添えてみた。前列左から三人目が菅井君、前列右の鍬をもっているのが自分である。

気心のしれた人たちと「畑のグループ」を結成し、畑作業や湯治旅行などで昔の苦労を洗い流していたのかも知れない。2010年以来、その「畑のグループ」の方々と年に何回かそばを通して懐かしい青年団時代の思い出話など旧交を深め合っていたのだ。

そばは食べるものだけでなく人と人とを結びつける何かがある。そして来店する皆さんから「美味しいそば」と言われるよう努力することが昨年4月を最後に永遠の別れとなった菅井君の霊への何よりの花むけになるのだ。そんな想いを込めて書き綴ってみた。

 

 

 

    “この時が最後になるとは思わずに 語りつくした 昔のことを”

 

 

2014年3月3日

 

今日は雛祭り、辺り一面雪が残っているものの陽ざしはやわらかく、吹く風もどことなく春の息吹を感じる。1日は県内各高校の卒業式が行われ、私も同窓会の一人として母校の式に出席した。

広い体育館は冷蔵庫のような寒さだったが、誰一人として咳一つするでなく静粛な雰囲気の中式は進行した。最後の卒業生代表の答辞は感情のこもった語りで、目頭をおさえる姿を何人もみかけた。自分達の卒業式を思い起こしてみれば、蛍の光や仰げば尊しを合唱すると、一堂に会するもの全てこみあげてくるものがあった。

 今年の冬は全国的に大雪となり寒さもまた厳しいものだった。昔から「寒」の時季を利用したものに寒づき米、寒づき粉、凍み豆腐や凍み大根などがあるが、今では冷蔵庫や冷凍の技術が進歩しているから、それらの言葉はもはや死語?になりつつあるなか、隣の友人である長治君の作る凍み大根は「道の駅むらた」で好評を得ている一品だ。白い大根を輪切りにして茹で上げ、真冬の寒中に軒先で乾燥させること約3週間、飴色に仕上がった凍み大根を煮物にしたときの甘さ美味しさは味わった人にしか解らないはずだ。

それと同じ理屈が寒晒しそばにもいえる。大寒の水に2週間ほど浸した後に春の陽ざしを受けて1ヶ月ほどの期間を経て仕上げていく。毎年工夫を重ねるたびに玄そばは順調に乾燥が進んでおり、お彼岸の中日から提供できるようこの後も準備を進めていきますので、お楽しみにお待ちください。ただ乾燥させる場所が軒先なので毎年100K位しか出来ず、どうしても数量が限定されてしまう。これから何年やれるかわからないが、何事にも身の丈‥というから、やれるだけやってみようと今年も一生懸命に仕上げています。今年も「むらた町屋の雛めぐり」が3月22日、23日の2日間開催されますので、雛めぐりを楽しんだ後、是非我が家の寒晒しそばを味わってみてはいかがでしょう。

 

 

 

      “春彼岸 町屋の雛と寒ざらし 蔵を眺めて 甘みでしめよう ”

 

 

2014年6月13日

 

しばらく晴天が続き雨もほしいと念願していた所へ、入梅宣言と同時にこの時期らしからぬ大雨に何かしら不安と異常を感じたが、今日は朝から晴天となり晴れ晴れとした気分でペンをとった。   

「以心伝心」 この語句を実感として味わったことがあった。それは去年の10月のこと、外国人留学生をお世話しているAFS宮城支部の渡辺さんが留学生4人と共に蕎麦うちに挑戦した時の事である。私の説明を渡辺さんが通訳してから蕎麦うち本番となった訳だが、途中からの相手の目をみながらの日本語と身振り手振りの説明が理解できたのかは知らないが、作業は順調に進みそれなりの蕎麦に仕上がり、スタッフも含め全員で自分達の手作りの蕎麦を味わい楽しんで帰られた。言葉は通じなくても想いを一つにして物事に当たるならお互いの心が通じ合って目的を達成することができるのだ、と改めて強く感じた次第である。

こんな田舎にいても、外国人の方々と気持ちを一つにして仕事を楽しみ喜びを感じた時、20年ほど前にお世話になった西浜さんのことを思い出す。それは「そばは色々あるんだし、自分なりの蕎麦づくりを勉強しなさいよ」という私への教えである。丁度私が民話の里に勤めていた時、残雪の残る平庭高原や猪苗代湖を眺めながらの福島方面、笹谷峠越えの山形方面など、各地の蕎麦を自分の蕎麦づくりに取り入れることができたのは西浜さんのお陰であり、今の千寿庵の大本だと思っている。

その西浜さんが今年の春に静かにあの世に旅立たれた、という知らせを受け取った時はまさかと信じられなかったが、自分自身健康でいる限り毎日の蕎麦打ちに精をだすことが何よりの供養になるのだ、と西浜さんへの想いを募らせながら今回のひとり言とした。

写真は民話の里に勤めていた頃に水車の前で撮った一枚、右が西浜さんです

 

 

 

    “巡り来る 9月になれば早や十年 忘れてならぬ 受けし教えを”

 

 

2014年7月22日

 

店の名前「千寿庵」の名付け親である桜中さんが遠い親戚の方を同行して来店。食事を終えての帰り際、民協活動で長い間お世話になった事などを暖簾の前でしばらく語り合った。町の消防団長、保護司、民協会長等の役職を歴任され、今は陰に陽に町の産業や観光、また若い人の人材育成に大きな柱となっている。昔も今も会話の端々に「まじめ」という語句を使ってのお話は自分の心の中に今もいきている。ふだんは物静かな口調ではあるが年に一度の消防演習では、桜中さんの号令で約260名の団員が曲尺を当てたように一糸乱れぬ隊列となったことは、30年以上も前の事ではあるが懐かしい思い出となっている。開店記念として戴いた掛時計は10年以上たった今でも正確に時を刻んでいる。この掛時計と「まじめ」という語句を一生の宝物として大事に持ち続けたい。

先月21日夜に一本の電話があった。明日山形から埼玉への帰り道、12時頃に総勢14人で立ち寄って食事をしたいというお話だった。山形へはさくらんぼ観光ですか? と聞いたらそうだと言う返事の主は木下さんとおっしゃった。翌22日、14人の座席をどこへ設定しようか?と思いつつ12時半になっても一向にその気配もない。もしかすると我家への立ち寄りは鍋の鉉に等しいので、今ごろは東北道を埼玉に向かっているのだろうか? 

2時近くになって「車が大渋滞で進めずやっとのことでもうすぐ着きます」という電話がはいった。渋滞で大幅に時間がおくれたら予定を変更して真っ直ぐ帰るのが人の常だろうに、このグループの木下さんは自分の言葉に責任をもつ「まじめな」な人だったのかもしれない。ようやく我家についた時精一杯の歓迎をし、帰るときには道中の安全を祈り感謝の念で見送りをさせてもらった。

 

 

 

 

      “約束の言葉違わず来店す 喜びうれしさ 溢るる感謝”

 

 

2014年8月4日

 

8月となって今日の第一月曜日は定休日。仕事のことを忘れて先月のことなど色々と思い出してみた。「そば」とはただ単に食べるだけのものではなく、人と人とをそばに引き寄せる何かがあるように思えてならない。

7月9日は雨降りの日だった。埼玉の若い人たちが山形にある「かみのやま温泉」に向かう途中、そばを食べたいとの事で立ち寄ってくれた。その賑やかで和やかなこと、こちらもその若さと賑やかさかのお裾分けにあずかった気分になり、夜の宴会用にそば焼酎「たまゆらの一献」を差し上げて楽しい山形の旅になることを念じて見送った。

7月25日は満74歳の誕生日。この歳になっても多くの人たちと語り合い嬉しさをわけてもらえる事の幸せも「そば」があるからなのだ。そのそばについては技術的なそばづくりではなく「そば」のそばづくりを教えて下さったのが福島県磐梯町の長谷川さんである。前回のひとり言で記したように西浜さんとお伺いし、また息子に乗せられて夫婦で何度かお邪魔させてもらった。そばはこうしてつくるのだという事は何一つ語るでなく、会津の歴史や風土、そばに対する長谷川さんの熱き想いなどを聞かせてもらいながらそばを食べて帰るだけであったが、いつも息子を案じる父親のような雰囲気のある長谷川さんだった。その長谷川さんが磐梯そば道場のグループで立ち寄りたいとハガキを戴いた時の嬉しかったこと。どんなに離れていても「そば」が結ぶ絆の深さ、日本人の多くの人に好まれている日本を代表する古くからの和食の一つなのかなと改めて感じる次第。銀山温泉へのバスに乗る前に我家の暖簾の前で記念に一枚撮らせていただいたが、皆さんが乗り込んだ後も長谷川さんとは尽きせぬ話で別れを惜しんだ。

 

 

 

 

      “そばのそば 教えを受けし先生と 逢いて語らう 尽きせぬ話”

 

 

2015年2月12日

 

まずは遅ればせながら、新年のお祝いと併せて余寒お見舞い申し上げます。

約半年ぶりなので何をどんな事を‥と考えたが思いつくままにペンをとった次第。千寿庵も昨年9月で開店10年を迎え現在11年目を進行中です。尚一層のご愛顧を宜しくお願い致します。

先月20日は大寒、今年も寒晒しそばを提供すべく冷たい水もなんのその、約120Kgのそばの実を大きな水槽に水道水を張り、その中に網の小袋に入れたそばの実を浸けこんだ。3年ほど前から川の流れ水でなく水槽にしたのは、老体の作業軽減だけでなく食の安心安全を図っての事。2日に一度は水道水を取替え、そばの実が入った小袋をゆらす作業はどんなに着こんでも大寒ならば体の芯まで凍みるほどだが、「甘みがあってとても美味しかった」とのお客様の顔を思い浮かべるとなんら苦にならぬものである。節分を過ぎたら引き揚げ、日当たりの良い高さ20cmほどの台にシートを敷き、その上に薄く広げて乾燥の段階へ入る。乾燥させる台の高さや目の細かいシートを使うのは水はけ良くし乾燥が順調に進めるためである。そうした舞台の上でガチガチに凍みたそばの実は、日中のやわらかい陽差しと寒風に晒される事の繰り返しを1ヶ月ほど続け、充分に乾燥したものを精粉することによって独特の甘みのある寒晒しそばとなるのである。

漢字でも平仮名でも二文字の「そば」ではあるが、「たべもの」としてのそばだけでなく「人と人」とを結びつけ引き寄せる何かがあるのではないかと思われる場面を時折見受けられる。また自分自身、多くのお客様から「そば」についての知識情報等を教えてもらえる事も「そば」のお陰だと感謝しつつ、本年もそば打ちに努めたいと思いますのでご指導ご愛顧のほど宜しくお願い申し上げ、平成27年最初の主のひとり言とさせていただきます。

 

 

 

  “香り 十割 味 外一 のどごしつるりと更科で 我家のおすすめ そば千寿”

 

皆様のお好みに応じた四種類のそばでお待ちしております

 

 

2015年2月21日

 

開店して2、3年が過ぎた頃であろうか、時折フラッと来店して食べる蕎麦はいつも更科。そしていつの間にか家族の一員みたいになって娘二人をまるで自分の子供のように可愛がってくれていた大島さん。その大島さんがここ半年ほど姿をみせないので心配をしていた矢先、亡くなったという知らせを受けた時一瞬胸がつまった。在りし日の姿を思い浮かべると豪放磊落、それでいてお話を交わす時の慈愛に満ち溢れた人懐っこいあの瞳。もう二度と会えないのだと思うと、来店の時に交わした会話の数々が押し寄せるさざなみの如く次から次と押し寄せてきて目が潤む。出棺の時間に間に合うよう片付けも早々にお伺いし、安らかな寝顔を観たときに大きくこみ上げる何かがあって言葉がなかった。特に娘たちは尚のこと感慨深いものがあったに違い。静かに手をあわせたが、またひょっこりそば食べにくるのではないか?そんな思いに駆られながらの帰り足だった。その大島さんが我家に残してくれたものが、このカレンダーである。大島さんの知り合いが勤める会社のカレンダーで、この絵が醸し出す日本的情緒の雰囲気が好きで、毎日眺めては大島さんの在りし日の思い出を巡る大事なよすがとなってしまった。

そんなこんなのある日、寒晒しそばの手入れの最中に、そばを食べ終えたにぎやかな若い連中がそばの実を物珍しそうにカメラに収めたりしていたので、「皆さんはどちらから?」と尋ねたら博多から来たのだという。「博多から?」思わず問い返したら「そうです 九州の博多からです」と、軽く答えながら「これは何ですか?」と聞かれたので、寒中に晒したそばの実で今は乾燥中であることなど少し話をさせてもらい記念に一枚撮らせてもらった。この後は米沢に向かうのだといって車に乗り込んだ一同を、影が見えなくなるまで見送った。時折遠くから来店されるお客様がいるということは、広く事業を展開する大島さんの関連する会社の方々の口づて耳づてのお陰なのだと、改めて深く大島さんに感謝の念をもった1日であった。

 

 

 

“カレンダー  好きな絵柄で連想す 想いもあらたに偲ぶあの人”

 

 

 

 

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