主のひとり言T

 

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ひとり言其の参

 

ひとり言其の四

 

ひとり言其の五

 

ひとり言其の六

 

ひとり言其の七

 

ひとり言其の八

2007年5月31日

 

5月19日に父が亡くなって早10年、残された母も現在入院中である。誰もいない父母の部屋の壁に張られた写真の中から、二人の思い出につながるものを眺めてみた。

最初の写真は、顔を会わせる事もなく戦死した叔父が入営するときの家族写真である。左端が母で、その時の自分はまだお腹の中と思われる。後列右が父、前列には祖父母そして叔父と叔母が幼い顔でおさまっていた。自分が物心ついた頃に記憶があるのは、毎日のように山で炭焼きする姿であり、モッコを担いでの開田作業であり、養蚕、養豚、養鶏と何でもやった父母の姿であった。次は自分が撮った父母の稲刈り風景である。

体が小さい父は負けずぎらいで酒も随分と呑んだが、社会生活上のルールだけははずしたことがなく何か怖い存在でもあった。また、住んでいた家は粗末ではあったが、農作業の合間に毎日雑巾がけする母の手によっていつもきれいに掃除されていた事を思い出す。

その父も晩年は肺気腫と肺がんで長期入院の末亡くなった。なくなる日の朝、痛みをこらえて「婆さんをたのむ」と言い残して息をひきとった。その母も寝たきりとなって5年が過ぎようとしている。共に苦労した妻の将来を予測しての父のひと言だったのかと思うと、夫婦の絆という、何ともいえがたい不思議な力が存在するのではないか、と強く感じたものだ。いま自分は、好きな蕎麦を通して、多くの方々からいろんなことを教えてもらい、元気も戴いている。これもひとえに苦労しながら自分を生み育ててくれた父母があればこそ、と写真を見ながら思い出に浸ったひとときであった。

 

右の写真、屈んで幼い自分を抱いている母

左の写真 父母の秋の種まき風景

 

2007年6月18日

 

今日は定休日なのでゆっくり起床。先週私の所属する団体では、鎌倉から熱海温泉、そしてペリー来航の下田へと、2泊3日の日本文化と歴史を訪ねた3日間のバス旅行があった。

写真を折り込みながら、もう一度思い出をたどってみたい。

初日の10日、雨降る鎌倉八幡宮を参拝の途中で出逢った、セーラー服の若い水兵さん。記念に写真をお願いしてお話をしていたら、何と仙台市泉区の出身と言うではないか。そしてその夜、熱海温泉で応対してくれた若いフロント係のおじいさんは、村田町の人というからまた驚いた。

遠い旅先で「ふるさと」を身近に感じた出来事であった。翌2日目は、地獄の様相を呈する大涌谷と天下に名高い箱根の関所を遊覧船から眺め、九十九折りの天城の峠を越して、着いた所は石川さゆりの歌でも知られている浄蓮の滝。駐車場には伊豆の踊り子の像が立っていた。やがてバスはきれいな海岸線を横目で眺め伊豆の下田へ。そこにはペリー来航時の黒船を模した観光船が座していた。旅行最後の夜なので、全員で記念写真をパチリ。3日目、堂ヶ島散策は船上からの巡りとなり、今回最後の見学場所、加山雄三ミュウジアムに別れを告げ、宮城へと向かう。東名、首都高速を経由し一路東北道を北上。最後の休憩地、安達太良パーキングについたのはその日の夕方。バスに戻る姿にも、心なしかほっとした安堵感が漂っていたようにみえたのは気のせいか…

気忙しいバス旅行だったが、鏑木美術館では描かれた日本女性の美しさに感動し、鶴岡八幡宮や箱根の関所跡では、時の権力者の絶対的な力をこの目で確かめることができ、また日本開国の地、伊豆の下田で目にした次の一文が、強く印象に残ったのでここに記してみたい。

『1855年、ロシアよりプチャーチン提督がディアナ号で来航し下田の長楽寺で日露和親条約が締結された。北方4島が我国固有の領土であることが明記されたのがこの条約でした』

 

2007年7月17日

 

今朝の朝刊紙面トップに、新潟長野震度6強というでかい記事が目に入った。南の方では台風4号の甚大な被害に加えて、今度はこちらで大地震という。被害に遭われた方々を思うと胸が痛む。

一日も早い復旧を心から祈りながら記事に目を通した。

先月末、我が家のお客様であり、味と香りのアドバイザーでもある黒木さんにそば屋さんを案内してもらった。最初のお店はちょうどお昼どきを少し過ぎた頃とあって、戦場のような忙しさにおもわず目を見張った。自分のそばと違ってやや細切りの洗練された美味しそうなそばである。毎日こんなに多くのお客様にそばを打ち続けられる、ここの御主人の力に感服すると同時に、一つ一つのそばに、心を込めて打つ事の大切さを思うにつけ、山奥で一人静かにそば打ちする事のしあわせを、新ためて実感した次第である。

もう一軒は、道路沿いの高台にあって、手入れされた松、自然石を巧みに積み上げた庭の配置、古い家屋の太い材料と新しい材料を組合せた、ログハウス風の立派な店構えに「だいぶ費用がかかっただろうに」と、そんな心配をしてしまった。人が集まる場所、多く行き交いする場所では、くせがなく食べやすく洗練されたそばが、絶対的な条件なのかと思うと同時に、我が家の如く山の中のそば屋は、少し癖のあるそばで勝負なのかなと、新ためて感じた次第である。

 

蕎麦と書き 読んでもそばの二文字なれど 無限に違う 打つ手によりて

 

2007年9月6日

 

台風9号が本土を直撃するとのニュースが流れる中、千寿庵の朝は嵐の前のような静けさ。

先月、元窯の鈴木初美さんが二人のお客さんを伴って来店された。店内にある津軽の凧絵をみて余程うれしかったのか、何度も感動と云う言葉を使って御礼を言われた。わけを伺ってみれば、青森で画家のお仕事をしている山谷先生と、青森を離れ仙台在住の竹内様のお二人であった。懐かしい津軽の凧絵で感動してもらったうえに、そばも美味しく食べてもらったのにはうれしい限りだった。その後、山谷先生から頂いた絵葉書に感動し、尚一層そばへの思いを強くしたのは言う迄もない。

8月で67才となったが、多くの人との出逢いや語らいを、蕎麦を通してこれからの人生にもっと感動を取込み、汗と涙の人生を送りたいとあらためて心に誓う。

話は変わって8月31日、黒木さんに連れられて山形へそば研修に出掛けた。山形蔵王温泉

”もってのほか”では、出された漬物と煮物に我が家の味を感じたのは嬉しかった。大根もピリッと辛く、そばも美味しく自分の胃袋にすぐおさまった。「せっかくだから、お腹を空かせてもう一軒いこう」と言う黒木さんの好意に甘え、天童にある温泉施設で一風呂浴びた後、同じ街中にあるお蕎麦屋さんへ向かった。びっくりしたのは地元の会社員らしき二人が美味しそうにラーメンを食べていたこと。聞いたところでは、山形ではラーメンも出している蕎麦屋さんが多いという。出てきた蕎麦‥想像していた蕎麦とは程遠い、やや太目の普通の蕎麦には正直がっかりした。「昔はもっと太かった」と言う黒木さんの話。

安いざるではなく、もっと高い蕎麦だったら良かったのかな?と思いながら帰路についた。

 

お陰様で9月で満3周年となりました。15日から17日の三日間、3周年記念を考えておりますので皆様のお越しをお待ちしております。

 

2007年12月3日

 

大正11年12月15日

今から85年前のこの日、私の母が生まれた。若くして父と結婚し、この山間の地でモッコをかつ いでの開田作業にはじまり、養鶏から養豚、養蚕、酪農、葉たばこ栽培と収入を得るためにあらゆるものを手がけた。母の柔らかい両肩には大きな「かつぎダコ」があった事を子供心に記憶しているが、それが何だったかは最初わからなかった。自分が生まれたのは昭和15年、そして二人の弟と一人の妹の計4人の子供を育てるための苦労は並大抵のことではなかっただろうと思う。

そして私の長男が生まれた昭和50年は、我が家の葉たばこ栽培も管内でトップクラスの評価を得て、家族全員で二重の喜びにひたったものだ。一生懸命働いた父も晩年になって病に倒れ、平成10年5月天寿を全うした。残された母も平成15年11月に転倒したのが原因で寝たきりの生活となった。後半は妻に替わって、日に三度訪れる孫のようなヘルパーさんの元気なかけ声に励まされ、おだや かな日々を送っていたが、11月24日朝、容態が急変し帰らぬ人になった。

告別式も済んで初七日の日に、多賀城在住の彫刻師Nさんがカマガミ様のお面を持って訪ねてきてくれた。何と言う奇遇だろうか。あの世へ旅立った母が「家族への守り神を残したい」との思いでNさんを呼んだのかと、お面のいわれを聞いてそう思わずにはいられなかった。

「たかだか一杯といえども心をこめてそばを打つことが、Nさんと両親への何よりの恩返しになる」そんな思いをあらたにした母の初七日でした。

最後に11月24日から12月3日までの臨時休業中、お客様には大変御迷惑をおかけしたことをおわびしますと共に、これからも宜しくお引き立ての程をお願い申し上げ、御礼とさせていただきます。

 

2007年12月31日

 

お昼を過ぎて、やっと年越しそばを切り終えた。

いつもの事ながら、終った途端にホッとすると同時に、ご愛顧を賜わった多くのお客様へ感謝の念を持って包丁を置いた。そして、調理場を片付けながら最近の出来事を思いだしてみた。

11月に行われた『蔵ing村田そば祭り』

たまゆらのそばを村田の特産物とすべく、村田町商工会の音頭で始まった企画。今年は町内の蔵座敷を利用してのイベント。仙台のそば打ち教室『青葉会』の皆さんの協力もいただき、盛況のうちに終了することができた。まるで観光協会と思えるくらいに各種イベントを企画して、「くらしとにぎわいが織りなす町 村田」を目指して頑張る商工会の方々には心から感謝を申し上げたい。

 12月に入り、年末恒例ともなってきた「たまゆらの産直市」のもちつき大会。そして、10年以上続く村田高校の生徒さんによる施設へのそば打ち訪問に同行。大晦日には、地区に伝わる黒松伝説の二世松にしめ縄をはって新年を迎える事となった。

 

そして、千寿庵オリジナルの一品、田舎蕎麦なれど細いめん『そば千寿』を正式メニューとして登場させることができたことが今年一番の出来事であった。

玄そばからの挽き具合や割粉水分の調整で、香りや味、喉越し

それぞれ全く違う4種類のメニュー。

 

 

  香り「十割」味「外一」喉越しつるりと「更級」で、我が家の一品「そば千寿」

トッピングにたよらない、蕎麦だけのそば屋を目指して頑張った平成19年であったと思う。

来年も宜しく御指導ご愛顧賜わりますようお願い申し上げまして、今年最後のひとり言とさせて頂きます。

 蕎麦の字を 読み解きあかせば限りなく ふくらむ胸に 広がる夢よ

 

2008年1月10日

 

明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。

新年になって早や10日が経過した。

元旦には孫たちと近くの干咾不動尊にお参りをし、その後地区の新年会に出席し、今年の安穏息災を語り合った。そして3日には地元消防団も無火災を祈願して団員一同の志気を高めた。

手前味噌ではあるが、我が家では祖父から始まって今の息子で4代続いて消防団を勤め、その一員として地区の防犯防火の任に当たってきた。息子は勤務の傍らであるが頑張ってほしいと思う。 また“山うるわしく 水清く ところをよしと代々の親”と歌った小泉小学校(今は村田第三小学校)のタグラグビ−チ−ムが県大会で優勝、青森での東北大会でも第3位の輝かしい成績を残したと聞いたが、60年も前に学んだ母校とはいえ新年早々うれしいことだ。7日には村田町の新春顔合会にそば組合4人が出席し、そばを提供して参加者から好評を得た。尚一層おいしいと言われるようにしたいし、町の特産品とすべく「たまゆらのそば」の収穫量を増やすために皆で頑張りたいと思う。

「暮らしと賑わいがおりなす町むらた」を目指して、宮城DCを念願としながら、商工会や町の指導を仰ぎつつ、今年も年寄りながら頑張りたいと思う。

 

あれも夢 これも夢かと 思わずに 身心ひとつに 思いを通す

 

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