主のひとり言T

 

ひとり言其の壱

 

ひとり言其の弐

 

ひとり言其の参

 

ひとり言其の四

 

ひとり言其の五

 

ひとり言其の六

 

ひとり言其の七

 

ひとり言其の八

2008年2月4日

 

早くも立春‥‥

「東京方面や日本海側では大雪」というニュースが流れているが、こちらはだだ寒いだけ。

雪は降らずとも厳しき寒さなれば“美味しい寒ざらし蕎麦”ができることは間違いない。

 そして厳しい寒さの中にも嬉しいニュース‥‥

私の母校でもある村田第三小学校(旧小泉小学校)に通う身内の子供が、タグラグビー東北大会で第三位になったという。身内として、また同窓生として、そのメンバーの写真を揚げてその嬉しさを表したい。自分たちが小学校に在学中は、約一里の道を歩いて学校に通っていた。膝までの大雪が降った時、ようやくたどりついたら、もうお昼に近い時間になっていたこともあった。雪合戦、そりすべりなど、今はすっかり遠い昔の夢となってしまった。

赤々と燃えるストーブを囲んで知らない人同志、そば談義から幼い頃の思い出話など、話はつきることなくいつまでも続く。そしていつしか自分もその話の輪の中に溶け込んでいる。

昨年暮れから新年にかけて、諸々の材料は大きく値上がりとなった。

幸いなことにストーブの薪はたくさんある。添え物の野菜なども、栽培から収穫そして調理にいたるまで、すべてに我が家の心を添えてお届けし、心と心をつなぐそば屋となることを願っている。

真っ赤に燃えるストーブをみてそう思った。

 

 人と人 つなぐ我が家の蕎麦すすり 炎になごむ 心と心 

 

2008年3月31日

 

今年で3年目の「寒晒しそば祭り」 色々な参考文献を手に試行錯誤してきたが、今年になってその違いをはっきりと確認することが出来た。その際立つ香り、練り込み時のしなやかさは、精粉する時から通常のものとは違っていた。いつも来店頂いている常連さんからも「やはり違いますね」とか「この甘さと香り、そしてこの小鉢の三品うれしい限りです」と言葉をかけていただいた。この言葉は私共家族にとって何よりの宝物と受け止め、そして寒晒しそばへの想いを、多くのお客様と共有できた事がうれしかった。

 

春3月は出逢いと旅立ちの季節ともいう。今は廃校となった小泉小学校姥ケ懐分校。ここに若くして赴任された佐藤先生。「寒晒しそば祭り」期間中2度もお越し頂いた。人生の波という年輪が刻み込まれているものの、元気で張りのある声と変らぬ立居振舞に、懐かしさをかみ締めながらカメラにおさまった。

出会いもあれば旅立ちもある。毎週お二人でお越し頂いていた片山さん。我が家の愛犬コロとすっかり仲良しとなり、又、家内や娘は身内のようなつき合いをさせてもらっていたが、宮城での2年間の仕事を終えて、北海道へ戻るのだという。コロを囲んで別れの写真を撮らせてもらったが、もしコロが話せるならば「さびしいけど北海道でも頑張ってね。2年間どうもありがとう」といったかもしれない。

そして、たまゆらのそば組合も新しい旅立ちを求めて春雨けむる24日、県北の大和町のそば組合にそば種子を求めて伺った。種子の更新と面積増反を図るべく、村田町役場の課長さん同行の下に、尚一層の組合発展を願っての行動であった。大和町課長さんとそば組合長さんに、心から感謝を申し上げ、そば種子を積んで帰路についた。

 

種子更新 図りて尚のうましそば 作りし思いを皆で語らう

2008年5月14日

 

5月連休中の『寒ざらしそば祭りは、多くのお客様に御来店を賜りました事に家族一同、心から感謝を申し上げます。とともに来年もまた、との想いを強くした。今年は、近くの山菜取りの名人、浅野さんから「こしあぶら」をたくさん戴いたので、4日と5日の二日間天ぷらにして一品添えたが、その美味しさは山菜の王者の名に恥じぬものがあったのではないだろうか。

前の月、4月22日はそばの師と仰ぐ黒木さんと、山形へそば研修に出掛けた。市内の有名なそば屋さんで「寒ざらし」を注文。洗練されたそばの味わいに、田舎者の年寄りには上品すぎる思いで食した。次に訪れたのは、市内から離れた場所にある有名なあらきそば。添え物もあり、鰊の美味しさと、勧められたお酒の旨さ。今でも思い出すと、そばと鰊とお酒の香りがジワーッと口の中に漂ってくる。繁華街と山里にあるそば屋の違いを、この目ではっきりと確かめたあと、歴史ある慈恩寺の参拝で山形のそば研修は終了した。

山形でのそばの味わいを胸に抱きながら、5月の連休明け 7日は、町の農林振興課とそば組合で面積拡大を図るため、遊休農地の測量に着手した。そばの播種期に間に合わせるべく、急ぎお願いし実現の運びとなる。身の回りにたくさんある遊休農地の再活用を図り、そばだけでなく、日本の食料自給率を高めるためにも、地域住民と行政とが一体となっていかねば、との思いを強くし、今年の面積拡大に大きな夢の実現となった。

 

 

“荒地をば 興して植わむ そば種を たわわに実るを 夢にぞみるや”

 

2008年6月23日

 

東北地方も梅雨入りとなり、今回の岩手宮城内陸地震で被害に遭われた方には「無情の雨‥」と思うとともに、「頑張って下さい」とただ祈るだけである。

今日は、前に受診した町の胃腸癌検診の結果、精密検査が必要との連絡を受け、同様に連絡を受けた約30人と一緒に検査を受けるため検診センターに向かうこととなった。その長く不安な気持ちを紛らすために、持参したメモ用紙とペンで6月になってからの事を振り返ってみた。

今月上旬、JA農家研修会の一環で管内の諸施設などを見学してまわった。お昼は角田市にあるシンケンファクトリーで地ビールを楽しみながら懇談し、新装なったJA葬祭センターやJAバンクなどを見学したが、かつてのように米などの農産物だけでは農協運営が成り立たない現状、所々に広がる休耕田をみるにつけ「日本の農業はこの先どうなるのか?」と、そんな心配がよぎった。   

その1週間後、一度はぜひとも行ってみたいといわれている青森の不老不死温泉へ、所属する団体で出掛けた。日本海に沈む夕日を眺めてのお風呂、そしてたっぷりのご馳走に、はるばる遠くまで来た満足感に浸ることができた。が、道中バスの車窓から見る広大な休耕田と、贅の限りをつくした食物が食べきれず捨てられている、その一方では骨と皮ばかりになって食べ物を待っている多くの人がいる現実。JA農家研修の時、そして今回の青森秋田と眺めた田園風景の中に広がる休耕田を見るにつけ、「みずほのくに にっぽん」はこれからどうなるのだろうか、という思いが胸の中でくすぶる。

そんななかの15日、午後から皆でトラクター7台連ねて、きたる8月初旬の播種作業の第一歩を印した。年間を通して安定供給出来るよう、そば組合の面積と収量の増加を願いながら一緒に汗を流した。終了後、皆で冷たいビールで労ったのは云うまでもない。

そんな毎日のお酒とのつき合いが深いからではないが、今日の精密検査とあいなった。

検査終了後「今日明日はお酒や辛いものは控えてください」との注意をうけたが、我が家台所の一升瓶の箱に書かれた一文が特に気に入っているので紹介したい。

  “人の世に 楽しみ多し しかれども 酒なくして 何の楽しみ”

たしか、牧水と書かれてあったと思う。

 

2008年7月28日

 

久しぶりの晴れ間。畑や庭の手入れなど仕事はたくさんあるが、定休日となると気がゆるむし、何故か定休日が待ち遠しい。いままでは、この7月28日という日をあまり意識をしなかったが、この頃少しは気になるようになった。何故ならこの日を迎えると一歳年齢が増えるからだ。ちょうど誕生日と重なった今回の定休日、机の上の整理等をしながらペンをとった。

昔の村田は地主と紅花商いで有名だったと言う。今はそら豆と、とうもろこし“未来”、そしてたまゆらの蕎麦が追いつけと頑張っている。我が家の孫の実家は、そら豆と野菜作りの篤農家でもある。そら豆の収穫期間中、たくさん頂いたので添え物小鉢三品のうち一品は、そら豆をずっと出し続けていた。こっそり孫の名前をとって「ひなた豆」と名付け、毎朝その日に出す分だけを殻からはじいていた。よく他所の蕎麦屋さんでは「つきだし」と言って、小鉢一品、蕎麦が出てくる前に出されるが、最初は「つきだし」とは何のことかよく解らなかった。我が家では「つきだし」がなくとも、後から蕎麦と一緒にでる小鉢三品が十分役目を果たしているものと思う。

たかが小鉢三品というが、毎日ともなると大変である。もっとも小鉢の役目は私ではなく、家内と娘の仕事だが、これがあってこそ、自分の蕎麦が引き立っているものと感じている。

ある日のこと、蕎麦を食べた後、外に出て風景を眺めながら休んでおられるお客様を見かけた。声をかけたら「10年ぶりに又来ました。スポーツランド菅生でのレースの時は折角来ていました」と語る名古屋市の平野様とお話を交わし、帰りに二人並んでの写真となった。外の景色を眺めながら、昔のことを思い出す場所として立ち寄って頂いた事を、とても嬉しく感じた。そしてこれからも、遠方より菅生の催物の時、おいでになられたお客様に「食べた蕎麦が美味しかった」と言われる様、手を抜くことなく頑張らねば、と平野様の車を見送りながらそう思った。

  

「なつかしき そばの味わいかみしめて すぎし日の あれやこれやを 思い出す」

 

2008年8月25日

 

今日も朝から雨降り‥

家内と艶歌のテープを聴きながら、若い気分になって車で外出。用件はお中元回り。

「義理がすたればこの世は闇」 歌の文句ではないが、義理と人情が綾なしてこそ、住みよい社会なのだと思う自分は旧いのか? と思いつつ今月を振り返ってみた。

 

8日金曜日、村田町国際交流事業で、英国研修生4人が町内4名の交流生と共にそば打ちに挑戦。母校の先生から教わったカタコトの英語と、身振り手振りで歓迎の挨拶を述べた。

その想いが、国と年齢の差を越えて伝わったようである。また外語大3年の小木曽さんの流暢な英語もあり、お互い目と目で了解しあってそば打ちを進めた。驚いたことは、ナイフとフォークのお国のはずなのに、大きなそば切り包丁の見事な切りさばき。思わず「あんべえど」(上手だよ、という意味)と声をかけたら、すかさず小木曽さんが研修生に意味を伝えてくれた。そしたら留学生4人は、一斉に私の方を向いてニコっと笑顔を返してくれ、私も思わず、親指と人差し指を丸めた身振りで「ようし」と返した。始めるまでは何かと心配した今回の交流、若い研修生とのふれあいに感謝をするとともに、そばを通して人と人との出逢いを尚一層大事にしたい。

 

明けて9日は土曜日

村田商工会青年部の屈強な若者が、家族や子供さん同伴でそば打ちとなった。

常日頃お世話になっている方々でもあるから、昨日の研修生とは違い、意思伝達もスームズに伝わり、そば打ちもたちまち終了となり、さっそく全員で打ち立てのそばをかみしめた。

 

 

 

 

 

 

 

15日は終戦記念日でもあり母の初盆でもある。

ここに大事にしている一枚の古びた葉書がある。自分はまだ母のお腹の中の何ヶ月頃かは解らないが、支那に出征し、そのまま帰らぬ人となったおじさんが出した、戦地からの便りである。どんな思いで戦地に赴いたのだろうか? お互いに理性を失い動物的な闘争本能だけで争った第二次大戦。しかし、その極限状態の中にあっても、人道的に決してひけをとらない行動を、とった日本人を紹介した記事を数多く目にするが、公に語ることはタブー視される風潮が今の日本社会だ。色々な過去があって現在がある。よいものは残し、よくない事は起こさないように、ご先祖様を敬い感謝の念を持って今を生きる。皆、そういう気持ちを持てば今の日本はもっと素晴しいものになるのではないか? 

この先短い年寄りが、言いたい事を書いてみた。

 

 

 「神仏  姿見えねど 心うち  敬い感謝  生きるぞ今日も」

 

 

2008年9月30日

 

今年の9月19日をもって満4周年を迎えたのを記念しての企画「第一回千寿庵・元窯まつり」は、鈴木さんのそば猪口の絵付けと、蕎麦打ち体験を同時に楽しむ少し欲張った内容であった。

はたして参加者はいるかな?というそんな不安を吹き払うような嬉しい方々に参加いただいた。

石田さん一家が、生後まもない赤ちゃんと、4歳のお子さんを連れて親子で参加して頂いたのである。実は開店間もない頃、蕎麦打ち体験にお越しいただいた石田さんが背負っていたのが、実は4歳になるお子さんであった。そのお子さんが私の顔を見るや「そばじい おめでとう!」と言って花束を手渡された時には「ありがとう」と言うのがやっとだった。そして仙台でお茶の先生だったという早坂さん。「今では台所の事は何もしていません」と言いながら、蕎麦を打つ見事な手さばきには、「一芸は道に通ずる」 そんな思いを実感させられた。

今まで何回ともなく催してきた蕎麦打ちだが、今回は今までにない特別な想いを味わえた一日でもあった。窯元の鈴木さんが「平成の柿右衛門か?」と思わずうなった石田さんのお子さんの真剣な眼差しと、あどけなさの中にも気迫が感じられた麺棒をころがす手つき。そして早坂さんの見事なまでの手さばき。まるで世代間の枠をこえて蕎麦を打つという一体感が、なんともいえない睦まじさを醸し出しているように感じた。若い石田さん親子に早坂さんと云う人生の達観者が加わる事によって、今まで感じる事がなかった満足感、幸せ感を分けてもらった事に感謝しながら、自分も孫を抱きながら記念の一枚となった。蕎麦打ちに参加された方、それぞれの楽しさや味わいの中から、自分も元気を分けていただく「しあわせ」に68歳2ヶ月も忘れてしまいそうになる。

 

 

「あの時の かわいい孫さん 早や4歳 花束もちて 絵付けに来る」

 

 

inserted by FC2 system