主のひとり言U

 

ひとり言其の九

 

ひとり言其の十

 

ひとり言其の十一

 

ひとり言其の十ニ

 

ひとり言其の十三

 

ひとり言其の十四

 

ひとり言其の十五

ひとり言其の十六

2011年1月11日

 

明けましておめでとうございます。

昨年中のご愛顧に感謝を申し上げ、本年もご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。

とともに、70歳の老体をいたわりながら打つそばに我が心を打ち込み、家族一同で皆様のおいでをお待ち致しまして、新年の挨拶とさせて頂きます。

昨年は各地での異常気象による被害があり、また年末から新年にかけての大雪や強風、兎年の幕開けとしては思いやられる年になりそうではあるが、自分なりに精一杯そば打ちに頑張りたい。

去年のたまゆらそば組合の作付面積は約10町歩。心配された天候にもかかわらず4トンからの収穫量があった事はうれしいかぎり。組合の忘年会には、今年の収穫量の尚一層の増産を目指して盃をくみかわした。

正月6日、町の新春顔合せ会には、約250人からの参加者に、たまゆらのそば粉を使って手打そば組合でのそばを提供。前日午後から準備と、当日は職員の方々の手伝いを得て短時間のうちにスムーズに終了する事が出来た。そして千寿庵の仕事始めは7日からで、連休最後 成人式の10日、地区公民館での新年会に参加。お互いに連帯感を深め地域づくりを語り合った。

 

年齢を重ねる毎に義理と人情に対する思い       を強くしながら、そして遠いところからおいで下さるお客様方に、感謝と御礼の気持ちを持って今年も精一杯そば打ちに励みたい。

 

 

 

“ななまるの 峠をのぼり ふり返る

 

   過ぎしを今に きざみて生きる”

 

 

 

2011年2月18日

 

今年の冬は例年になく寒く、幾度となく雪かき作業で汗を流す事があった。また、粉合わせ作業の粉の冷たさは、氷をつかんでいるような感覚になる。それでも我が手を通して作るそばに、自分の心が伝わるのかと思うと我慢もできる。

今年も1月20日の大寒に水に浸し、2月の立春に川から引き上げ乾燥に入った寒晒しそば。

今回はちょっとした工夫を施した。それは同じ高さのパレットを並べ、それにコンパネを敷きつめ、その上にシートを広げての乾燥方法をとった事で、例年になく乾燥が順調に進んでいる事だ。コンクリート土間から高さ20cmの空洞をつくることで風の通りがよい。

まさに我が家の“籾蔵正倉院”、毎日気持ちよくそばの実をながめている。すっかり乾燥した玄そばを精紛する時は、また別な挽き方で、食感と甘さを引き出す工夫をしている。その時に舞い飛ぶ粉の香りが、パン酵母菌のような甘さで我が頬をかすめる。

もっか春のお彼岸を目標として、毎日乾燥の手入れに精をだしているが、一つ余計な仕事がある。それは雀の大群を追い払う事だ。いままで我が家の周囲に殆んど見られなかった雀が、群をなして高い所から隙あらば、と狙っているのだ。

雀たちもエサのない時だから大変なんだろう。しかし、こちらも冷たい川の流れで、身震いする思いで手入れをしたそばの実を、一粒でも横取りされる事は腹の立つ事、雀とのケンカは1ヶ月ほど続く。

身震いする思いの川での浸し作業や雀とのケンカなど苦労して乾燥した後に、精紛してつくった寒晒しそば。昨年だったかその寒晒しそばを食べたお客さんから「やっぱり違いますね」と、一言かけてもらった時のうれしさは格別なものだった。お客様からのその一言を楽しみに、今年も冷たさをものともしないで、頑張ってつくった寒晒しそばへの思いを書いてみた。

 

  “そばの実を たべるな来るな 群雀 冷たい思いで手がけたそばだ”

 

 

2011年5月9日

 

今回の大震災で被災された多くの方々に対し、心からの御見舞いと一日も早い復興をお祈りしながら一言を綴らせていただきます。

今日9日(月)は定休日。天気は朝から気持ちのいい晴れ、厨房内の清掃と25kgの玄そば精粉を終えた後、「献上寒ざらしそば」を提供しているというそば屋さんに出掛けて昼食とした。

思い返せば、あの震災から早くも2ヶ月になろうとしている。

精粉作業がまもなく終わろうとしたその時、機械が大きくガタガタ揺れ動き、周囲を見回すと壁や建物全体がまるで大波に揺られる船のように大きく揺れている。そして地の底から唸るよう地響きが聞こえた。「地震だ」すぐ電源を切って店に向かうと、幸いにしてお客さん方は一人も居なかったので、家内や娘達が庭のまんなかで一つの輪になって避難していた。不気味な地鳴りと木々のざわめく音、建物がつぶれるかと思うような横揺れと振動の中、私ら家族は立つ事もできずにしゃがみ込む姿でおさまるのを待った。

ながい揺れがようやく治まり静かになった時には、電気水道そして電話はストップ。それから約半月、ろうそくと懐中電灯にトランジスタラジオ、そしてバケツでの水汲みという生活を過ごした。しかし沿岸の方々の大津波での被害の甚大さを思うと、今でも胸が痛み「何かを!」との思いが渦をまく。

「天変地異」昔の人は文字をよく組み合わせたものだと思う。昔からこのような大災害が何度となく発生したが、日本人のがまん強さと粘り強さ、そして助け合いの気持ちで乗り越えてきたのだという。今回も日本人同士、お互いに頑張る姿がテレビや新聞で報道されている。また。被災地慰問で励ましに訪れた天皇皇后両陛下は、周囲に余分な負担をかけまいとする思いやりで日帰りの日程を組まれたという。

こうした思いやりやいたわりの中でお互いに頑張るならば、そう遠くない時期にまた元気な東北になるのではないか、そんな思いを強くした今日この頃なのである。

最後に、秋野様から戴いた白石川のきれいな桜の写真と添えられた一文を紹介して、筆を置きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“花を観て 人の心も 和みなむ”

 

2011年5月30日

 

今月16日夕方、家内の母が突然倒れ病院に駆けつけた時にはすでに亡くなっていた。その日のお昼頃までは、茄子を植えるのだと頑張っていたのだという。手作りこんにゃく、“わらっと納豆”そして野菜づくりの名人であった。特に玉葱はやわらかく甘味があり、スライスしたものに醤油をかけて食べると美味しかったし、これを特に指名希望する遠来のお客様もあった。義母の死が信じられないまま告別式を済ませた今でも、腰を曲げつつ野菜畑で汗を流している姿が目に浮かぶ。享年88歳。死ぬ直前まで自分の好きな事に精を出し、共に喜びを分かち合ってきたのも、常日頃の家族や地域の思いやり支えがあったからだと思う。仏壇の写真を見る度に「ありがとう」と皆に呼びかけているような和やかな表情に、こちらも何かしら心が落ち着き、心静かに手を合わせる事が出来るのだ。

義母の突然の死だったが、そのあと嬉しく感じた事が二つ程あった。

一つは陶芸家の古山先生が奥さんと来庵。差し出したのは手作りのそば猪口20個。以前差し上げたそば殻を燃やして作った釉薬で色づけ作ったのだという。手に軽く金属音を発し、渋い感じの器は我が家のそばにはぴったり。平日のみの使用としているので、焼き物好きなお客様は、平日来庵の上古山先生の作品をゆっくりご鑑賞下さい。

もう一つ、何よりも嬉しかったことは昨日29日、子供連れで栃木から来られたという親御さんとお話を交わすことが出来た事。休日に東北各地を家族で食べ歩くのが趣味、そして大のそば好きで、我が家のそば千寿がお気に入りという。「そば千寿」と「田舎のさらしな」の合わせ盛りだったので、この二つを比べたらどちらを選びますかと聞いたら、揃ってそば千寿という。そして子供さんもその違いを噛み締めて食べているという、お父さんの返事に、一緒に各地を食べ歩いている子供さんも、既にそばの違いを会得しているのか、と感心してしまった。お父さんが歯医者さんということもあって、歯を大事によく噛んで食物を味わう習慣も自然と身についているのだろう。

そうなのだ、そばは噛んで食べるもの。啜るものだと一般的通念になってるが、自分には理解できない。啜って食べるものは白石名産のうーめんかそうめんで、「我が家のそばは程よく噛んで食べて下さい」、お客さんとの会話で必ず口にする自分の一言である。

自分のそば作りの思いを、この栃木の子供さんが共有してくれているのだと思うと、とてもうれしくなってお父さんと二人揃って写真を一枚撮らせてもらった。

 

 

  『噛む程に 味と香りを楽しんで ちょっぴりつけたす この一しずく』

 

2011年8月1日

 

3月の大震災以来、天候の急激な変化はどうした事か。

被災地の状況をテレビ新聞で見るにつけ、“何かお手伝いを!”との思いから、町社協の災害ボランティアに参加。定休日を利用して3回ほど個人住宅の泥出しや片付け作業などに従事した。災害現場は、口や文章では何と表現したらいいのか解らない。国民の忠僕たるを叫んで当選した国会の先生方が、このような状況を遠い異国、他人事のように論戦しているが、心底被災地の事を考えての事だろうか?

  ふと思い出したのは、一緒に泥出し作業を手伝った関西方面から来たという若い娘さんの事。店の定休日の今日、昨夜は新幹線を乗り継いで今朝到着、今夜は12時過ぎに帰宅予定。翌朝8時から又仕事に出るのだと云う。石巻、仙台にも行ったしもう一度来たいと言う。一見ひ弱そうな感じの娘さん、“なぜそんなに?”との問いに、「被災地の皆さんの少しでも力になれたら」そう答えながら村田の男10人と一緒に額に汗流す姿は、別な意味での真の大和撫子をみた思いだった。

そんな折、家内に向かってこう言った「おら東京さ行くだ!」6月12日、母校の関東支部総会に会長と出席。新幹線から降りると津波ではなく人、人の大波。会場のホテルからは完成間近の東京スカイツリー。このような場所からは、被災地の状況は思い浮かべる事は出来ないし、新聞テレビで見る場面と実際目の前にした光景は大違い。“百聞は一見に如かず”であり、“我が身を抓って人の痛さを知れり”との諺を深く心に感じた。関東各地に居住する同窓生10数人が参加したが、ハガキでの近況報告を寄せた数は約50枚にもなった。健康上や仕事の都合上、参加は出来ないが母校に対する思いが短い文面に溢れていた。出席者の中で紅一点、どこかで見覚えのある女性も出席。総会終了後乾坤一で乾盃、懇親会となってすぐその女性から声をかけられたが、すぐには思い出せなかった。自分達は夜間部、相手は昼の通学生だから、学校行事以外は顔を合わせる事もなかったが、あの頃の瑞瑞しい女学生と、目の前の女性とが一致するには、約50年の年月を5、6秒で駆け抜ける事によって解決した。

懐かしい高校時代に思いを馳せ、酌み交わした乾坤一のおいしかった事。二次会は村田町足立出身の川田さんのお店に移動。そこでも乾坤一で昔話に花を咲かせた。

乾坤一といえば、今年も弟たち日本酒好きな一行が訪れて、そば打ちと乾坤一を飲む会を催した。なんでも我家に来る前に乾坤一に立ち寄り、それぞれ乾坤一を購入したらしい。三つのグループに分かれてそば打ちに挑戦し、それぞれの打ったそばをつまみに、乾坤一の特上酒で乾盃。一升瓶やらビール瓶やら大分横にしたようだが、さすがに日本酒好きな面々とあって、美味しそうに次から次と盃を重ね、涼しい顔して夜の宿泊先からの車上の人となった。

見送った家内が一言。「あの人達、あんなに飲んだ酒、いったいどこに入ったんだろうね?」

 尚 この催しは、弟のブログにも掲載されたのでよければご覧ください。

 

      http://nabechann.blog85.fc2.com/blog-entry-387.html

 

     

  ゛盃でぐっと飲みほすこの酒は 村田の銘酒 乾坤一よ゛

 

2011年11月11日

 

今日は11が三つ重なる特別な日である事を思いつつ、これまでのことを色々と思い出しペンを取ってみた。

特別な日といえば忘れてならないのは8月15日。終戦記念日であるこの日が近づいてくると、マスコミや政界は靖国神社参拝に関して大騒ぎとなる。今の平和な日本は色んな人たちの尊い犠牲があったればこそではないか。罪を犯したと云われる人が「死」という事象によって、免れるとは思わないが、過去の事実を客観的にみつめ、二度と過ちを繰返さないためにも進んで参拝し心から冥福を祈るのが、国を司る立場にある者の務めではないだろうか。

「戦塵に散りし御霊に背を向けて国を語るも虚ろにひびく」

我家にも26歳の若さで中国で戦死したおじがいる。出征した息子にお腹一杯コメのご飯を食べささてやりたい、そんな思いでほとんどの米を供出し、粟、きび、そしてネッケなどを食べて無事を祈ったと云うばあさんの願いもむなしく、昭和19年4月21日帰らぬ人となった。当時4歳だった自分は写真で面影を偲ぶしかない。

その中国産のそばを播種栽培すると写真のようなきれいな紅いそばの花が咲くのだ。写真家の星さんが「その紅いそばの花を撮りたい」というので案内して撮った何枚の中から頂いたのがこの写真である。この花を収穫乾燥し、地元たまゆらのそば粉と併せ使うことによって、戦死したおじの魂、そしてばあさんの心情がそばに打ち込まれ、他のものとは一味違ったそばの味となるのだ。

 そう信じてそばづくりに励む自分であり、ばあさんに子供の頃に食べさせられたそばネッケが、今の千寿庵蕎麦の原点なのだ。

 

 

  行けど進めどそば又そばの、花の香りにつつまれて、歩み乱れず又進む。 

はるか彼方に日は落ちて、肩にくい込む背嚢に、故郷(くに)で農せし父母偲ぶ

戦地にありし子等のため、少なき米は供出し、今宵も食せしそばネッケ

 

おじとばあさんの胸中に思いをよせて 

  

2011年12月3日

 

今日は朝から雨、12月の声を聞くと何となく気忙しく感じる。そば屋の方も早仕舞となったし、降る雨を眺めながら今までの事を振り返ってみた。

2ヶ月前の9月17日は幼稚園の運動会。孫達の演技に頬をゆるませながら見ていたが、徒競走の番となり、スタートの合図と同時に一斉に走り出した。やがてひとかたまりの群れから、孫である“ひなた”が飛び出し、思わず「ひなた頑張れ! 頑張れひなた!」と叫びながらシャッターを押していた。ゴールテープを切ったのを確かめた後に、カメラを握った手をみたらギッシリと汗がいっぱいであった。周囲に誰がいたのかも無我夢中でわからない状態であった。今思うと余りにも大人気ない動作であった事に、冷汗が流れる思いであった。

昔、ベルリンオリンピックの実況放送担当者が「前畑ガンバレ!ガンバレ前畑!」と握ったマイクに向かって応援アナウンスをしたと聞くが、人間誰しも「我」を忘れて夢中になり「一筋に純粋な気持ち」になる時があるのではないかと思った。

それから1ヶ月ほどたった10月23日、商工会の研修旅行に参加した。白川郷、飛騨高山、上高地と一泊2日のバスによる強行日程であったが、永年の夢でもあったので、ともかく満足感で一杯だった。白川郷では昔の人達、集落全員の強力な「結」組織が、あの合掌作りを形成し今に残る世界遺産として、新たな白川郷が息吹いているのだと思った。そして宿泊地である高山の古い町並みに、まるでタイムスリップしたような風景に心が安らぎ、日本人の物づくりの素晴らしさに感激し、「一筋に純粋な気持ち」でその道一筋に打ち込んだ修練の結果だと思う。

はたして今の時代、このような技を継承する人がいるのだろうか?との思いで、高山屋台会館、桜山日光館を後にした。翌朝は高山の朝市、昔の面影残る町筋を散歩。きめ細やかな匠の技と風情ある高山を後にして上高地へと向かった。前日来の雨は何処へやら、晴れ上がった大正池から眺める上高地の山々に思わず感激。昨日見た人の力の織りなす技と、いま目前に広がる大自然のすばらしさに、「何と変化に富んだ国日本なのだろうか」と老体を顧みず参加した事に、大きな喜びを味わった次第。カッパ橋ふもとのホテルでの昼食は名物の蕎麦とつまみに飲んだビール。2時間以上風景にのまれながら歩いた後の旨かったあの味は今でも口中に漂っている。

そしてバスにゆられゆられて東北道のパーキングで求めた新そばパック二つのおみやげ持参で、我家に帰着したのは夜の9時すぎだった。

 

 

  結びつく人の力は白川で  匠の技は飛騨の高山

 

  

 

 

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