主のひとり言U

 

ひとり言其の九

 

ひとり言其の十

 

ひとり言其の十一

 

ひとり言其の十ニ

 

ひとり言其の十三

 

ひとり言其の十四

 

ひとり言其の十五

ひとり言其の十六

2015年4月20日

 

3月末に町の社会福祉協議会による「一人暮らし高齢者の集い」では、「笑いのすすめ」と題した健康講座が仙台大学健康福祉学科の高崎先生他職員生徒さん方七名が講師役となって行なわれた。そのグループの学生のひとりから「千治さん、あの時お蕎麦でお世話になりました」と声をかけられ、直ぐには思い出せなかったが話をするうちに思い出してきた。何年か前まで、村田高校の福祉系列の生徒さん達が毎年末に行なっている各施設への蕎麦打ち訪問の為の練習や訪問の際の手伝いをしていたことがあった。何十人といる生徒一人一人の顔までハッキリと見覚えがなかったが、向こうではしっかりと覚えていたようだ。現在は外国留学で身に付けたあざやかな手話の指導者となり、参加者約60人が手ぶりよろしく「ふるさと」を合唱する姿をみて、あの時の生徒さんが今こうして社会的に色んな場面で活躍しているのだと、同窓生の一人としてだけでなく蕎麦のとりもつ縁の深さも感じ、元気はつらつと指導する若い後輩の姿が嬉しく感じた。そんな訳で50年以上前の古い卒業生と何年か前の若い卒業生が一緒にカメラに収まった。

蕎麦が出てくるまでいつも一人静かに本などを読みながら待っているお客さんといつしか言葉を交わすようになった。そんなある時、「村田に私の知っている人がいるんですよ」と言う。どなたなのかと聞かせていただいたら、なんと私が消防団員であった時の団長であり、民生委員会の会長さんでもあって大変お世話になったばかりではなく、千寿庵の名付け親でもある桜中さんだと言う。蕎麦を通して色んな人と結びついているのだと、荒さんと改めて人とのめぐり合わせについて語り合った。その一言一句が保護司会の事務局長さんというお人柄からか、やわらかさとまるみさを感じ、何かしら色んなことを教えられる会話のひと時を過ごさせてもらっている。

つながりといえばお互い言葉は通じなくても、以心伝心というか目と目で語り合っての蕎麦打ち体験を過ごす時がある。この老体、若い外国の方々と蕎麦を通じて交流させてもらう事にこの上ない喜びを感じている。その若い外国の方々を我家に引率してくれるのが留学生を世話している団体AFS宮城支部の渡辺さんである。その渡辺さんと老後の生きがいに力を添えてくれる蕎麦にも感謝を表しながら、毎日の蕎麦打ちに精進したいと心を新たにした。

 

   “外つ国や 老いも若きも結ばれる 角あるそばで丸くつながる”

 

そばの実は三角の角がたち、磨きをかけて丸くしたのちに製粉すると白い粉になります

2015年7月1日

 

早いもので7月、今までの晴天続きから一転しての梅雨入りとなった。季節の移ろいが大きく変わったようなその中にあって、開店祝いにお客様からいただいた枇杷の苗2本。今では大きく育って咲いた花が実を結び黄色く色づいてきた。ずうっと我家を見守り続けてきた10年、その間頻繁に外出する自分をなんと思って見ていたのだろうか? その一方で残された家内と娘二人が一生懸命に蕎麦屋の仕事に精出している姿に励ましの目で見守っていたのかも知れない。

外出といえば6月の初めに団体の研修旅行に参加、世界遺産となった富岡製糸工場と富士山を巡る二泊三日の旅だった。バスにゆられて富士山の五合目で降りた時、意味不明の会話が飛び交う団体が次々とバスから吐き出され、ここは日本なのかと疑ったほど外国人で一杯だった霊峰富士の五合目であった。五合目と書かれた大きな横看板の前で記念の一枚と思ったが、気忙しい会話の一団が途切れることなく手鏡(スマホ)で写真を撮り合って占拠している状態が続いていた為、五合目の標柱がある別な場所に移動してようやく全員での記念写真を撮ることができた。またお土産を求めてレジの前に立ったら、あちらの人間と間違えられてしまった。「神々しい霊峰富士のイメージからは程遠い雑沓にまみれた観光地になってしまった‥」という思いと、「夢にまでみた富士山に登った」という満足感が交差する複雑な気持ちであった。

この日の昼食会場は有名な蕎麦屋さん、というガイドの説明の通り広い駐車場と立派な門構え、そして豪華な造りの部屋に通されて驚いた。23人分の蕎麦が盛られたお膳がキチンと並んでいるではないか。我家ではとても考えられないし、頼まれてもできない事だと思いつつ箸をすすめた。大型蕎麦屋と田舎の小さな蕎麦屋の違いをしっかりと体験した事に意義を感じながらの昼食でもあった。帰り道、ある場所にかかった時「後ろに富士山がみえる」という声に振り返ると、遥か遠くにかすかではあるが一際雄大にそびえる富士の姿があった。いつまでも、いつまでも首が痛くなるまで、山が見えなくなるまで振り返って眺めていた。

 

   

     “近くより 遠く眺めて感動す すそ野広げて 富士はそびゆる”

 

2015年8月18日

 

仙台七夕以降しばらく続いた曇天、そして突然の豪雨。子供の頃のあの穏やかな四季の移ろいはどこに行ってしまったのだろうか?

今年の夏にも嬉しかった事と悲しかった事があった。

まずは嬉しい事であるが、それはお盆休みで実家の墓参りに来た途中、忙しい中にもかかわらず同級生が立寄ってくれた事である。中学を卒業して60年間一度も会った事もなかったが、中学時代の僅かな面影から暗がりの中で一筋の光をみたように「えんどうさん‥」と一声。中学時代の同級生は250人ほどいたように記憶しているが、若いときの思い出印象はいくつになっても強く頭の中に残っているのかも知れない。お互い短いひと時ではあったが、懐かしさ嬉しさ一杯の時を過ごす事ができ、いつかまた会える事を楽しみに走り去る車を見送った。

そして、言いようのない悲しさを味わった今年の夏。暑中見舞いを差し上げた磐梯そば道場の長谷川先生の奥様からの返信は、先生が正月に亡くなった事を知らせる内容だった。そのハガキを手にしながら昨年7月に長谷川先生のグループ一行が玉川温泉からの帰りに立寄られた時の事を思い出した。(この時のことは2014年8月14日付主のひとり言に書いています) 民話の里勤務時代、上司の西浜さんと長谷川先生を訪ね、そばについてのお話の中から「そばは“技”ではなく“心”で打つものだ」との教えを深く胸に刻み今に至っているが、先生方御一行のグループがバスに乗っても玄関先での二人の立ち話は尽きることがなく、バスからは何度も「早く帰りましょう」と催促されたが「今いくから‥」との返事3回目でようやくバスの人となった。あれが先生との最後になったのであれば、もう少し待っていただいて先生ともっとお話をしておきたかったと強く思う。在りし日の先生を偲び「心でそばを打つ」事が何よりの供養恩返しになるのだとの思いを強くした次第である。そばについてのお話を伺っている20年ほど前の写真を添えて、長谷川先生のご冥福をお祈りいたします。

 

“在りし日の 師の面影とあの笑みを 胸に刻みて そば打ちきざむ”

 

2015年9月14日

 

9日から10日にかけて降った大雨は茨城、栃木や宮城県北の大崎地方に甚大な被害をもたらした。今日は何事も無かったの如く静かな一日だったが、お昼のテレビは阿蘇山噴火のニュースが流れていた。4年前の東日本大震災、そして木曽の御嶽山を始めとする各地の火山の噴火と豪雨。いつどこで何が起こるか判らない毎日の生活の中、特に今回の豪雨被害に遭われた方々には心からの御見舞いを申し上げます。そしてできるのであれば暖かい我が家の花蕎麦を提供したい、そんな気持ちでひとり言を綴ってみた。

先日、どうにも判らないことがあった。毎日同じ様な繰り返しの蕎麦打ち作業だが、家内から「蕎麦が切れていて恥ずかしい。お金を頂くのも気が引ける。」と言われた。なぜ切れるのか?どう考えても原因が思い当たらない。もしかして人生の師と仰ぐ方からのお便りが久しく途絶えたのは何か自分に至らぬ事があったのではなかったのか‥天候の悪さとこの事が重なったモヤモヤの気持ちがそうなったのか‥

考えるほど気持ちが打ち沈むのをどうする事も出来なかった。ここはひとつ何もかも忘れて気晴らしをしたいと思い、孫たちの夏休みの思い出作りも兼ねて8月24日(月)秋保の大滝方面へ出かけた。大滝を通り過ぎ二口街道野尻のそば畑を眺め、二口ビジターセンターでひと休み。周辺を散策した後は大滝不動西光寺へ参拝し御朱印をいただいた後、どうどうと流れ落ちる滝を眺めていると、いつしか心が落ち着き何となく気持ちが燃え上がってくるようになってきたのが不思議なくらいだ。

滝つぼから立ち昇る真っ白な水しぶきに一切の雑念が吹き飛ばされ、この日一日は近頃にない最高の一日であった。

 

"憂き事も 滝の流れで どこへやら 響く滝音 明日への力”

 

 

2015年10月5日

 

早いもので10月、朝夕の肌寒さを感じると、あの暑かった夏、そして突然の豪雨竜巻はどうしたものかと思うときがある。

先月9月16日で千寿庵も11年目を迎えた。その間我家を守ったオリジナルの暖簾は、あまりにも出世したので守り神として今も毎日静かに見守ってもらっている。民話の里時代も含め開店当時から15年近く1週間に一度の割合で来店し、各地の名所旧跡の写真や「そばの科学」と言う本なども頂き、そばや食べ物に関する諸々のお話などで花を咲かせ、自分のそば作りに大きな力を与えてくれた秋野さん。今来店が途絶してしばらくになるが、どうしているかなと案ずる今日この頃である。確か若い時は食品関係の仕事に従事していたと言う。穏やかな話の中から自分のそば屋としての知識習得に大いに教わった事は確かで、自分自身父親の感じで接していた秋野さんだった。自分の机の前に以前頂いた写真を飾って、思いあらたにしながらそば打ちに精を出す毎日である。いずれ自分自身、外出もままならぬ時が来るであろう事を思い描きながら、生きていることの証として精一杯好きなそば打ちに頑張ろう、それが長らく私のそば打ちに力を与えて下さった秋野さんへの恩返しになる。9月21日地区の敬老会へ出席しながらそんな思いを巡らした一日であった。

 

 

“子を育て 地域を守りて 年重ね 集い語らう 敬老の日に”

 

2015年11月30日

 

月日の流れは早いもので明日から12月、毎日同じ事の繰り返しではあるが気忙しい思いで年齢を重ね満75歳と4ヶ月となった。

今年のそばの収穫量は全体的に少なめであったが、例年になく香りの強い新そばでになった。刈取時期が早く未熟がかったそばの実を精粉し、手にとってみるとほのかに香る青味が何ともいえず「ああこれが新そばなのだ」との思いを深くしたのである。10月30日に組合関係者で試食をした後、恒例の新そばまつりが11月7日8日の2日間、町の蔵通りを中心に行なわれ多くのお客様にたまゆらの新そばを味わっていただいた。又、別のそば打ち体験コーナーでは、赤ちゃんをおんぶしたお母さんや子供連れの御夫婦、そして年寄が圧倒されそうな元気のよい奥様など、多種多様な方々とそば打ちと会話を楽しんだ。ひと休みする時間もなかった体験コーナーは疲れも忘れるほどの何かしら深い喜びを感じ、帰宅後のコップ一杯で程よく体がゆるんだ。

そば祭り翌日、地域のお年寄りの集まりである「悠々げんきクラブ」で駐在所のお巡りさんが振り込め詐欺防止の寸劇を披露し、そのあと全員で新そばをたべながら色々なお話し合いとなった。そばは食べるだけのそばだけでなく、人と人とを結びつける「人のそば」でもあるのかなと感じた今年の新そばであった。

 

 

“人とひと より添い語らう たまゆらの 新そば食し 心が和む”

 

 

2016年1月22日

 

年が明けてひと月が過ぎようとしてる今日、遅ればせながら今年最初のひとり言を綴ってみた。今朝の新聞には各地で行われている寒ざらし蕎麦の仕込みの様子が掲載されていたが、我家でも昨日100kgからの玄そばを水づけにし、春のお彼岸からの提供に向けて準備作業に入った。    

自宅で蕎麦屋を開業した当時、この辺りではあまり聞くことのなかった「寒ざらし蕎麦」を暗中模索しながら行った。水づけした蕎麦の実の乾燥途中の様子を、当時仙台の広告会社に勤務していた宇都宮さんが取材に来店。これにより我家の寒ざらし蕎麦は春のお彼岸からの風物詩として広く一般のお客様に知られるようになった。それがいつしか仙南各地に広がり、今では本場山形に負けないほど白石・川崎の寒ざらし蕎麦が有名になったのも、宇都宮さんが逸早く取り上げてくれたことがキッカケにったのではないかと思う。大寒になると今も広報活動に専念しているだろう宇都宮さんに感謝の念を厚くしている。

また2006年9月には「たまゆらの蕎麦」の取材に宇都宮さんが地元誌の小島記者と再来店。これにより姥ケ懐のたまゆらの蕎麦は次第にその存在を認められるようになったのだ。

昨年はやさしい羊の年であったからか、新蕎麦の時期に地元NHKの番組「てれまさむね」の吉田レポーターとの緊張した気分で蕎麦打ちを行い、終了してホッとした時に記念のパチリがこれ。

ここで、宇都宮さん、吉田さんとの蕎麦での出会いを“みそひともじ”であらわしてみた。

 

“たおやかな にょしょうにひかされ そばをうつ おいたるかいな ちからこもりて”

 

年末に行われた収穫祭は、大青工業さん、布田林業さん、そして組合の関係者多数参加して現地の畑を見ながらの開催となった。会社からは芋煮、こちらは朝早く準備した打ち立ての蕎麦と鍋釜持参で参加。「茹でたての蕎麦は美味しい」と食べてもらったことには疲れも忘れただただ嬉しかった。蕎麦は人と人を結びつける何かがあるのかな、と思いながらいつしか寝込んでしまった。

 

 

 

 

 

“一粒の種子がとりもつそばの縁 広がる人の輪 農工一体”

 

2016年2月22日

 

早いもので2月も半ば、日当たりのよい場所には福寿草、そしてまだ雪が残る日陰にも生き生きと水仙が芽吹いているではないか。この地球上に水と空気がある限り、ひ弱そうな草花でさえも厳しい寒さを乗り越えて毎年株を増やして成長していくのに、人の一生のもろさはかなさを強く感じることがある。巡りきた春になっても芽吹くこともなく、そのまま一生を終えた知人がいたのをそれとなく耳にした。交わした会話などがついこの間のように思い出され、いつの間にか後期高齢者の格印を押された自分もいつかはそうなるのかなと思うようになった。

だからと言ってそば打ちをズルしようとするのでなく、尚一層丁寧に誠心誠意老体をいたわりながら、との思いでこれまでの毎週月曜日に加えて毎月第三日曜日(変更する場合あり)も定休日としました。粉にするための削段の作業をふまえて、千寿庵だけのそばに仕上げたいとの思いをもっての事ですのでご了解を得たいと思います。

その初めての定休日となった昨日21日、愛犬チョコと現在改良工事中の県道25号線の工事現場まで夕方の散歩を楽しんだ。別名蔵王岩沼線とも言うこの道路は、仙台空港から村田インターを経て山形までの最短重要道路と位置づけられていた。ようやく構想開始から約30年を経て本格的な工事となり、難所だった峠越えもトンネルの掘削、そして大掛かりな橋梁工事によって平成30年度全面開通となる予定。我が家の前を通行する車両も格段に増加するかも知れないし、そば千寿を食して下さる人も増えるのではないか‥そんな期待も込めて町観光協会の指導を受け「まちの駅」の設置を申請した。改良工事完成を心待ちにしながら、そば打ちに精を出しているこの頃の老体なのだ。

 

”構想を おこして過ぎし30年 今ぞとどろく つち音高く”

 

2016年6月13日

 

早朝から降る久しぶりの雨音にどこかしら体がゆるんで7時半過ぎに起床。朝食後明日の準備を済ませて掛かりつけの病院で血圧測定、先生から日常の注意点などのお話を受け、薬をもらって帰宅。ひと休みしたのち先週の土日を思い出しながらペンをとった。

あの暑かった金 土 日、そして今日の雨、さわやかな緑色の「そら豆まつり」が道の駅村田で、そして町の体育館では「蔵の工芸市」が催され、その為か我家にも県外の車が多かった。なじみのお客さんが「どちらも蕎麦のおいしい県なのになあ‥」と問いかけてくるので、「手打蕎麦は人間が作るものでそれぞれに違う味わいがあるんじゃないの」と返事をすると、「そういうことなのか」と頷いてまた読みかけの本に目をおとした。

「香り十割、味外一、喉越しつるりと更科で、我家のお勧め そば千寿」

我家では四種類の蕎麦を提供し、それぞれ自分好みの蕎麦を食べてもらっている。これもひとえに蕎麦屋を開業して間もない頃、大学に勤務する黒木さんにお願いし、福島や山形の旨いと評判の店をネットで調べ、あちらこちらに案内勉強させてもらったお陰で今の我家がある。各種各様の蕎麦を食べ歩きながら、色んな種類の蕎麦を一軒の店で提供することができればいい、想い考えた末に試供品を作って黒木さんに試食してもらい、OKサインが出たのを待ってメニューに登場させた。

そうしていつしか四種類の蕎麦はお客さんにすっかり定着し、「いつものアレで!」と注文を受けるようになってきている。人それぞれに好みがあるものだと痛感するとともに、四種類の蕎麦が自分の「売り」であり、“蕎麦の香りを消す天ぷらは出さないし出せない”というのも「売り」にしている。

何はともあれ蕎麦屋を開業したのが10年前、その時は玄そば一袋22kg、玄米30kgなど重いとは感じなかったが、今ではやっと持ち上げる老体となった。しかし蕎麦に対する想いはより一層重いものとなり、黒木さんに連れられて食べ歩いた各地の名店の味わいを糧としながら、今日も明日も蕎麦打ちに精進しようと思う今日この頃である。2009年8月31日掲載の“主のひとり言”には、黒木さんとのそば研修の事を書き認めてあり、山形若松様へ参拝した時の二人揃っての写真をここに再掲載しながら蕎麦に対する想いを新たにした次第。

            

            

     “食べ歩き 話を聞いて模索して 作りし蕎麦は四つのメニュー”

 

2016年7月11日

 

梅雨の晴間を見てそば組合では小麦収穫の真最中だ。この小麦がやがてたまゆらそば組合の「姥のふところ」という小麦焼酎となり、村田の山専酒店に並ぶとたちまち売り切れる程のおいしさと珍しさなのだ。小麦の刈取後はそばを蒔き10月下旬に刈取をし、村田町商工会の秋のイベントである新そば祭りに、そして精粉され又は玄そばのまま町内のそば屋に提供している。

6月初旬に催された町の民生委員会の研修旅行から早やひと月が過ぎた。今回は念願の舞鶴の引揚記念館がコースに組み込まれており、民生委員の仲間とは最後の旅行ということもあって、思い出深い研修旅行となった。記念館で特にその場所から離れ難かったのは、岸壁の母のモデルとなった端野イセさんの写真の前。歌にテレビに子を思う母の姿に多くの人が涙したように、自分もまた立ち止まり続けた。「遅くなるぞ」と声かけられながらも引揚港舞鶴の記録という本を買い求め、バスに乗ったのは私が一番最後であった。

その夜の宴会ではみんなで乾杯、差しす差されつの楽しい時に続いてカラオケとなったが、なんと最初の曲が岸壁の母であった。情感たっぷりの歌が進むにつれ、あの記念館で観た60万人とも言われる多くの日本人がシベリアで強制労働させられた様子の写真や展示物等を思い出し、しだいに胸が締め付けられるような気分になり、盃がすすまなくなってしまった。周囲の仲間たちには済まない気持ちだったが一人静かに過ごした初日の宴会であった。

2日目以降に訪ね歩いた神社仏閣は歴史と文化の香り一杯の参拝研修だった。清水寺(だったと思う)の一隅にはアテルイの慰霊碑、知恩院の庭には平和の祈り予科練供養塔、そして徳川最後の将軍が大政奉還の意志を示したとも言われている二条城二の丸御殿の大広間など、多くの歴史的史跡をこの目でみる事ができ大満足の研修旅行であった。最後の夜は大好きな湯島の白梅など、心晴れ晴れと唄って宴会を心から楽しむことができた。

 

゛みちのくの英雄ここに(清水寺)祀られる ガイドに問えばスマホで答う″

            

     

 

 

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