主のひとり言V

 

ひとり言其の十七

 

ひとり言其の十八

 

ひとり言其の十九

 

ひとり言其のニ十

 

ひとり言其のニ十一

 

ひとり言其の二十ニ

 

ひとり言其のニ十三

ひとり言其の二十四

2019年(令和元年)7月6日

 

いつだったか‥今にも降りそうな雨雲に押しつぶされそうな朝、今日もやるぞと麺台に向かったその時、腰の周囲にビリビリとした痛みを感じ、麺台を杖にしばし立ちすくんだ。

なんだこんなこと!と力を振り絞ってどうやらその日の分を打ち終え、とりあえず病院に向かった。レントゲンの結果は背骨と首が曲がっている他に、全体的に老化もあって神経が圧迫されており痛むのは当然とのお話。元には戻らないが痛みを和らげ進行を止める手立てだけはできる、との事で我が身を預けることにした。温熱、電気、そして最後は看護師さんの手によるマッサージのお陰で、蕎麦打ちだけはなんとか毎日続けている。手紙の返事を書かねばならない先輩友人がいるが、ペンを持つ気分にならず大変申し訳ないと思っている。仕事をしないで休んでいると何となく楽な気分になるが、ジクジクと痛むときはやる気もなにも無くなる。神経痛なるものは世間でよく言う「なまだら」病なのかと苛立つ思いにもなる。心を静めようと、先だってお寺の旅行会に参加した時の住職さんのお話や、そしておなじみのお客さんの顔を思い浮かべると、その痛みも忘れてしまうから不思議なものだ。

そんななか、札幌に転勤しても年に2回は来店してくださる片山さんご夫妻。そして飯田さんの案内でアメリカ・インディアナ州のRockyさんとJamieさん御一家が来店され、初めて食べたそばの味はvery good。にこやかな笑顔でのれんの前で記念写真に応じてくれた事は、腰の痛みも忘れたひと時であった。

 

 

“信心と気力で打ち込む そばへの思い 人と顔とが闇夜の光明(ひかり)”

 

               再建された本堂で(お寺の旅行会)  

 

2019年(令和元年)9月8日

 

「今年はイノシシの年」 東日本大震災における東京電力の原発事故によって、福島県はもちろん周辺各地における放射能汚染の被害はもちろんだが、それ以上にイノシシの被害は我が家周辺でもひどいものがある。日本は地震国火山国であることを考えれば、人間の論理、能力などは通用しないものであることを今回の東電の原発事故が雄弁に物語っている。

目に見えない放射能の恐ろしさは、言うまでもないが今この周辺を悩ましているのはイノシシであり、これはここだけでなくて各地で発生する豚コレラもこれに一因しているようなニュースも耳にしたことがある。

対策として電気牧柵の設置に各自治体で助成はしているが、耕作者の負担もばかにならない。それでもイノシシ対策に一番有効ということで、我が家においても全部の田んぼに配線していた。しかし一安心も束の間、10日ほど前に目にした黄金の穂波は、先日早朝の見廻りで無残にもイノシシに荒らされ見る影もなくなっていた。

一生懸命手入れした田んぼ、そしてイノシシ対策もしっかりやってきたつもりだったが、イノシシは電気配線をどのようにして潜り抜けたのか、尻尾を先にしてのことか、それとも配線の下に穴を掘って入ったのか、イノシシに対しては手の打ちようがないと多くの仲間が語っているように、あの手この手の対策もお手上げの状態なのだ。

イノシシの大繁殖、大増産をもたらしたものは東京電力の原発事故であり、この事故さえなかったら周辺の放棄地はもっと少なかっただろうし、サツマイモやジャガイモももっともっと作る人もいただろうと思うと、イノシシも憎いが東京電力の原発も憎い気持ちでいっぱいだ。

原発の安全安心はいつ崩れ去るかはだれも予測できないが、数多くの知識人科学者によって安全というお守りを、信じているにすぎないのだと思う。

 

“動物に非ざるイノシシ害獣でこれとの共存もってのほかだ

2019年(令和元年)10月21日

 

8年前のあの大震災の後も各地で自然災害が発生しており、今回の台風19号でも各地で甚大な被害をもたらした。自分の体が許せるなら駆けつけて何かの役に立ちたいと思うものも、現在と8年前では体のことを考えるとそれもままならず、やるせない思いに駆られる。

あの大震災の時には、自分の体においても何ら心配することはなかったし、民生委員在任中でもあったので、町社協の呼びかけに応じ、朝3時に起床しその日の蕎麦打ちを終えて、後は婆さんと娘たちに任せて日の丸弁当で参加した。床下の泥だし、周囲の清掃片付けなど精一杯働いたつもりだったが、今では20kgの玄蕎麦一袋もやっとの思いになったし、腰痛で毎日整形外科のお世話になっている状態では、気持ちはあってもただ被災地の皆様方の1日も早い立ち直りをお祈りするばかりです。

19号台風では、各地で道路が寸断され県道25号線も通行止めとなって、来店するお客様も遠く迂回路とかの不自由をおかけしているようですが、50年以上も前から構想のあった峠越えのトンネル工事も、今や急ピッチで工事が進められ接続する橋や、急カーブの多い場所の改良工事が今年12月末には完成する予定だという。それが出来れば仙台空港と山形市が最短で結ばれ物流観光にも大きな恩恵があるものと思う。

夏休み最後の日にトンネルの親子見学会に参加した。トンネルの中を大勢の参加者たちと担当者の説明を聞きながら、完成まじかのトンネル内をこの足でしっかりと踏みしめて、歩いた後は全員で記念写真を撮ってもらい1日も早い開通を待ちながら解散家路についた。

 

“山越えの カーブ大きしこの道路 念願かないて地の下通る”

2019年(令和元年)11月30日

 

明日から12月、早いものだ。毎日同じことの繰り返しであっても、ふとした何かで思わぬものに仕上がることもある。というのは、先だってある団体さんや他のお客さんが来店したおりの蕎麦は、自分としては納得のいく蕎麦ではなかったのだ。

毎日考えていたが、水分、練りこみ、もしくは新そばという未熟な実だったことから粘性がなかったからか。ただ一つ言えることは、手触りがよくなかったことだ。眺めても何かしらざらついたような感じがあったし、何よりも手の感触が大事なのだと思った。それからの物は納得のいく蕎麦を提供している毎日だ。「ときおり違ったものになるのも手打ちなのだから‥」と言われたが、考えようによっては“なるほど”と頷くこともあった。

今年は、我が家の辛味大根の成績がよく春先まで好みに応じて提供することが出来る。

「あの辛さ、答えられないよ」と辛味大根愛好者の声を耳にしながら、畑から採ってくるのを楽しみにしている。尚、辛味大根は別名「ネズミ大根」とも呼ばれています。

 

“おおからい、蕎麦との相性ピッタリだ、またも一口つるりと喉へ”

2020年(令和2年)1月18日

 

早いもので1月も半ばとなった。遅ればせながら新年のご挨拶を申し上げます。本年もよろしくお引き立ての程お願い申し上げます。

振り返ると昨年は楽しかった事と大きな喜びとする事があった。それは昨年のそば祭り期間中に、幼稚園児とお母さん方計10人ほどでそば打ちを楽しんだことだ。自分も童心に帰って、幼子たちと2時間ほど楽しませてもらったことは、精神的にも若返ったようでちっとも疲れを感じなかった。

そして、大きな喜びとすることは、若かりし頃に夢みたいな話と語ってたことが現実になったことである。青年団時代、よく海の見える岩沼と村田を結ぶ県道25号線の峠付近で遊んだものだ。そのころ“いつかここにトンネルができる”という話をそれとなく聞いていたが、そんな夢みたいなことがあるんだろうかと、意にもとめなかった。

時は流れて昨年12月21日、永年の夢であったトンネルが完成し、宮城県知事や隣接市町村長出席のもとトンネル開通式が行われた。その式典で孫が開通記念の作文とテープカットの役目を担うこととなり、おかげさまで自分も父兄の一人としてその開通式を目の前にすることができた。県知事と並んで村田町と岩沼市の生徒が共にはさみを入れるその瞬間を、この目で確かめることができた事はこのうえない大きな喜びであった。これは自分ひとりの喜びにとどまらず、仙台と山形を結ぶ重要な幹線道路となり、物流や観光にも大きく貢献することになると思う。

青年団時代の夢が今叶ったことに、健康で長生きする事の喜びをトンネル開通とともに大きく味わった次第。

 

“長年の夢 今目の前に叶えられ テープを切りし 我の孫”

2020年(令和2年)2月11日

 

昨夜降った雪は夜半には止み、日中の暖かさで日なたは殆ど溶けてしまった。

今国会では、新型コロナの対策はもちろんであるが、このきれいな日の丸を汚すような議論がなされている。さかのぼっても言うまでもないが、国民のだれ一人として納得の得ぬまま、一生懸命決着を図ろうとしているのは、周囲に諫める人もいなければ権力を一手にしたおごりである。多くの国民が待ち望んでいるのは水戸黄門さんか大久保彦左衛門のような、現代で言えばかつての後藤田官房長官のように、きちっと物事を判断して筋を通す人ではないだろうか。国会の中継を聞いていると、腹が立って蕎麦でなく自分の指を切るような時もしばしばであった。こんなことでも書かないと腹の虫がおさまらないと思っていた矢先、新聞紙面で村田の酒造店の専務さんが聖火リレーの走者に選ばれたという記事を読んで、自分のことのようにうれしくなった。いつか話してみようと思っていた矢先、大勢の仲間と来店。食事の後に暖簾の前で1枚撮らせてもらった。

 

“日の丸が はためく春の陽光に 昨夜の雪も いつしか失せし”

2020年(令和2年)3月1日

 

先月2月の節分には、いつものように民話の里で豆まきが行われた。ここでは平安時代の武将である渡辺綱(わたなべのつな)の鬼退治に由来して「福はうち、鬼もうち」と独特の掛け声で豆をまく。この鬼退治伝説を基に村田町の故桜中町長が地域おこしの一端として民話の里を作ったものである。

なぜいろいろな物語が生まれたのか? 写真にある家系図の一部は故桜中町長が岐阜方面に赴いて、調べ持ち帰ったものである。“渡辺綱は仁明天皇三代の孫である敦の養子となって源頼光に仕えた。頼光四天王随一と言われ天延4年に鬼女を伐つ。正徳5年に源頼光に従い伊吹山に凶賊を退治した” と書かれているように、その勇猛ぶりがうかがえることから昔の人は想像を巡らせていろいろな物語を創作したのではないだろうか。

爺さんから大きな赤ん坊を背負った婆さんが手をついたと教えられていた「姥の手掛け石」。今では渡辺綱が退治した鬼が逃げる際についた「鬼の手形」として知られ、この地域だけでなく村田町の観光名所の一つとなっている。県道22号線峠越えの難所も、昨年末トンネルが開通し尚一層の観光客が村田町いやこの地区に訪れることを祈りたい。

話はもどるが民話の里の豆まきには大勢のお客さんが集まり、地域の人たちのついた納豆餅やあんこ餅に行列をつくっていた。そして「鬼もうち」との掛け声でまいた豆を「自分の歳の数ほど食べると丈夫になる」というお年寄りの言葉をそのままに、多くのお客さんたちが豆を拾い集めていた。

 

“その昔 武勇優れた侍は(渡辺綱)多くの説話 今に残れり”

2020年(令和2年)3月22日

 

いま全国の小中学校は突然の休校要請により、子供たちは家庭での一人遊びや勉強などで毎日過ごしている。先日、中学1年の孫に付き添って休み中の宿題を受け取りに登校。待っている間、玄関で掃き掃除をしていた女性と、昔の木造校舎などの思い出話をした。彼女もその時代のことを記憶にあるらしく、話しているうちに自分の名前を呼ばれてびっくりした。

「私は高橋馨の娘です」その一言で昔夜間部時代にお世話になった、当時4年生だった馨先輩をついこの間のように思い出した。授業終了後の夜9時過ぎた頃から文化祭に向けて演劇の練習に励んだこと、馨先輩の指導でどうやら文化祭当日役目を果たしたことなどを、その娘さんと時間の経つのも忘れて思い出を語った。あの頃は自転車通学、雨の日は傘で徒歩、暗い夜道はなんとなく気持ちが良いものではなかった。あれは確か60年も前のことだったな、と話しているうちに孫が出てきた。

そんなことを思い出しながら蕎麦を切っていると、見覚えのある顔と背の高い子供さんらしい人達4人が車から降りたのを見て、思わず石田さんと声を発した。蕎麦屋を開業して間もない頃、小さな子供を連れて蕎麦打ち体験に来てくれた親子だったからだ。あの時の小さな子供が今は両親より大きくなっての来訪に、「もうこんなに大きくなったのか」と驚くのと同時に、月日が経つのと自分が年取ったことを改めて強く感じたしだい。

 

“可愛いおててのお子さんが 背丈大きく 親をも超えて

 

 

 

 

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