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2005年6月13日

 

私の所属する団体で栃木・群馬方面へ一泊二日の旅行に出た。“富広美術館”、昔懐かしい国鉄の鈍行列者を思い出させた“わたらせ渓谷鉄道”、今は昔の唄となった“湖畔の宿の歌碑”、足利家ゆかりの“ばんな寺”や“足利学校”、そして今村田で大きく話題となっているアウトレットモ−ル等を見学した忙しいバス旅行であった。その中で印象に残った富広美術館での一枚の絵と詩の一節。

『神様がたった一度だけこの腕を動かして下さるとしたら母の肩をたたかせてもらおう』風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたらそんな日が本当に来るような気がした。最初の一行は声に出して読めても、あとの行は何かしら胸がつまって読めなくなる程、強く印象に残った富広美術館での一枚の絵と詩であった。

 

2005年6月21日

 

千寿庵にとって今日は新たなスタートともいえる日である。この姥ヶ懐地区を蕎麦の特産品として育てようというプロジェクトの第一歩が始まるのである。昨年の9月に千寿庵をオープンした時は、先々の不安が一杯であったが、地元の人たちの熱い思いを肌で感じ、私も大いに勇気づけられ、更に新たな意欲を掻き立てられた日であった。

その企画とは、『たまゆらの郷』の蕎麦。

地域おこしと商店街の活性化を求め、村田町商工会がここ姥ヶ懐地区の農家と協力して、新たな特産品“たまゆらのそば”作りがスタートし、21日に地元で『そばの種まき祭り』を催されたのである。

関係者を招いての神事のあと、地区内の畑47Rへ夏そば用としてまきつけ、又秋そば用として約5町歩の畑を確保し組合を組織して準備を進めている。

町の商工会による初の試みとして、8月26日からの3日間、村田町内の蔵通りで『村田食の祭り』を開催することが決定した。ここ姥ヶ懐の里を“たまゆらの郷”と名づけ、この地で栽培された“たまゆらのそば”を特産品として広く愛され、食されるよう皆で協力して邁進していくことを確認。

 もちろん私も、30年以上愛用のトラクターでそば畑を耕し、美味しい蕎麦を皆様に提供していきます。

 

2005年7月7日

 

今日は七夕、しかし当地方の七夕は1ヶ月遅れの8月7日であり6日〜8日の3日間は東北三大祭りの一つ「仙台七夕」が有名である。 それはそれとして、7月生まれの自分に先日届いた郵便物を開封したら介護保険被保険者証だった、今までの若い気分から改めて65歳という年齢を感じた次第。 先月末2人で、そばで有名な観光地にそばを食べに出かけた。待つことしばし、丼一つに「おまちどうさまでした」という店員さんの挨拶。漬物とか煮物の小鉢ひとつもなく、我が家の場合と比べて物足りなく感じたのは2人一緒。毎朝漬物や煮物の準備での気配りを考えるとき、丼一つの接待には有名な観光地だから許せるのか、自家用の野菜畑が無いからなのか、名のあるそばを食べた割には物足りなさを感じて帰路についた。その反動ではないが、我が家では季節ごとの野菜を使った煮物や漬物で、田舎の季節を味わってもらおうと強く思った。 “仏作って魂入れず”この言葉に身を持って味わったことがある。父が病床にあったとき県外の有名なそば産地から求めた粉を使ってそばを打って食べさせたが、「なんだ今日のそば!まずい!」という。「有名な産地の粉だからうまいはず」という安易な気持と、手を抜いたそば作りを指摘された思いだった。いかに名のある産地の粉といえども、作る人の心が込められなければただの粉。名のない自分の挽きぐるみの粉であっても、「精一杯心を込めて仕上げればどこよりも劣らぬぞ」と言い聞かせ毎日のそば作りに励んでいる。

 単純な毎日の動作であっても繰り返すことによって、限りなく前へ進んでいくものだ。人は機械でなく動物であり反復するとこによって、動物の本能は尚一層研ぎ澄まされるのではないか。あの世へ一歩一歩近づくにしたがって現実には役立たない世迷言ばかり考える今日この頃である。

 

2005年8月8日

 

梅雨入りと同時に、7月中は殆ど太陽の顔を見る事はなかったが、8月になって一気に晴天、そして連日30度を通す真夏日が続いた。8月3日は「村田高校介護福祉科」生徒さんによるそば蒔き、続けて「村田第一小学校」生徒さんのそば蒔き、そして7日仙台七夕の日は「たまゆらの郷」そば組合員による一斉そば蒔きを実施した。

終了後皆でこれからの事について打ち合わせをしていたら、西空にわかに曇ってはげしい雷雨、昔から仙台七夕の午後には強い雷雨があると言われており「やはり的中したな…、昔からの言い伝えは決してうそではない」。皆で落ちつきの雨とばかりに喜び、冷たいビ−ルで豊作になる事を祈った。

8日、いつもの常連さんに案内され山形へそばの試食に出かけた。そばの奥深さに、驚きと不思議さを体に一杯刻みこんで帰って来た。家路への帰りみち、笹谷トンネルから出ると同時に激しい雷雨、車のラジオから流れるニュ−スは参院で郵政法案否決との事。国会も今日の天候と何と似ていることか。

それにしても小泉総理のどこまでも貫き通す信念の強さには心からの敬意を表したい。結果については後世が評価することではあるが……

 

 

2005年8月29日

 

初めての催しであった『蔵ing蕎麦まつり』の3日間。

初日の朝、「はたしてお客さんはきてくれるだろうか?」という不安な思いを抱きながら、

会場のヤマショウ記念館にむかった。

天候は台風の影響もあってか雨模様。やはりお客さんは少なめ。

しかしそんな中、そば打ちの様子や、町の蔵通りでの色々な催し物の様子を宮城テレビの育美ちゃんが取材、賑やかに放送してくれた。

私も、千寿庵の蕎麦と一緒に写真を撮ってもらったり、二人並んで撮ってもらったりした。

そんな所為もあってか、2日目と3日目は天気にも恵まれ、大勢のお客さんで賑わった。

折角きていただいた方々に美味しい蕎麦を味わってもらおうと蕎麦を打つ手にも思わず力がはいった。

ただ気掛かりだったのは、忙しさのあまりに、いたらない点があったのではないかと心配している。そんな中「お店の方にも寄らせてもらったよ」と声をかけてくれたお客さんの言葉はとても嬉しかった。

初めての企画で手探り状態の3日間であったが、しっかりと整理をして来年以降も継続してやっていきたいと意を強くして、一回目は終了した。

 

2005年10月10日

 

開店してからの1年間は日々無我夢中の毎日で、やっと節目の1周年を無事迎えた9月、ホッとしたというか、緊張の糸が緩んだのか………気になりつつもご無沙汰してしまった。

「せっかくホームページを訪ねてくれた方のためにも」と気を取り直し、久しぶりの『ひとり事』と相成った。

10月10日は晴れの特異日。本来ならばこの日は晴天となるはずが、残念ながら朝から雨降りの1日となった。最近1ヶ月の気象を思い起こすと、国内はもとより世界各地で、物凄い集中豪雨や台風、ハリケーンと自然災害の恐ろしさを改めて感じさせられた。そんな中、我がたまゆらの郷では、そばの花がきれいに咲きほこり、今収穫の時を迎えようとしている。先月の開店1周年祭には、来店の多くの方々から励ましの言葉を戴き、嬉しいかぎりであった。体力の続くかぎり、そばの作付けから始まり、自分が手塩にかけた蕎麦を、いつまでも田舎の蕎麦好きなお客様へ提供し続けたいと意を強くした。

開店1周年からほどなく10月1日、国勢調査が始まったが、各地でいろんな問題が生じているのを耳にした。国の将来を見極め、一人一人が良くなるためにも進んで協力したいものだ。

そして10月9日、村田町は挙げて秋祭り。今年の熊野神社の祭りでは、ここたまゆらの里、姥ヶ懐地区30戸の中から若者25名が結束して神輿をかつぎ、地域の連帯感をたしかなものとした。話を蕎麦に戻そう。しばらく前の雨の日、入ってきた一人のお客様が太目の十割蕎麦を注文、食べ終えてから色々と世間話へと。話題が蕎麦のことになり「そばをつなぐ方法として、そば粉で糊をつくって、それをつなぎにすれば良くつながるからやってみたら」との貴重な意見。さっそく糊つくりに始まり、そば粉と粉まみれとなる苦闘の毎日が続き、この頃になってようやく、挽きぐるみ粉十割で、お客様の好みに応じて、太くも細くも切り分けができるようになった事は、自分ながら嬉しいかぎりである。

 

2005年11月7日

 

11月1日からの一週間、村田町で初めての4店共同での催しであった『村田 たまゆらの郷 新そば祭り』。「ふるさとの新しい特産品を」 という地元の熱い思いで育てられた“たまゆらのそば”のデビューでもある。口コミで聞きつけたのか、平日でも普段の倍以上のお客様が来店されました。片田舎の小さな蕎麦屋にもかかわらず、期間中何度も足を運んでくれたお客様、家族みんなで来店されたお客様など、感謝の気持で一杯の日々であった。

当店のホームページを観てくれたお客様からは「店からの一方通行でなく、私達の声も書き込みできるようにしたらどうですか?」というような貴重な意見もいただいた。60歳をすぎてから始めたPC、皆さんの期待に応えられるように更に勉強しないといけない、新たな課題がまた一つ。人生幾つになっても学ぶべきことはたくさんあるものである。

人の味覚は千差万別というが、多くのお客様に新そばの香りを楽しんで帰っていただけたようである。庭先に乾してあるそばの実を手に取り、「食べる蕎麦になるまでは大変な苦労があるんですね」と声をかけていいただいた時は、このうえない喜びでもあった。

これからも田舎の年寄りが自分のペースを守りつつ、蕎麦の香りと味わいを求めていきたい。そして多くの方々に田舎蕎麦を味わっていただけたら幸いである。

また、今年“たまゆらのそば”の作付面積は約5町歩だったが、来年はもっと増産すべく、皆で共に頑張ろうと、想いを新たにした新そばまつりであった。

 

2005年12月31日

 

今朝は3時半に起床して蕎麦打ちの準備にとりかかる。昨夜から降り続いた雪は、あたり一面銀世界となっている。この清らかな雪の世界とはうらはらに、今年もいやな事件のなんと多かった事か。今朝の雪や雨は程よく降ってもらえば自然の恵みとなるが、多すぎると自然災害となって社会を混乱させてしまうが、これだけはなんとも予測しがたいものがある。しかし昨今の事件を振り返ると、余りにも許されない出来事が多すぎる。欠陥を隠して口八丁手八丁で何も知らない市民に売りつけ、なおかつ責任をなすりあう輩には、地方大工の棟梁気質を叩き込みたいものだ。また、未来の日本を背負うべき若者が、己の欲求を充たすためだけに暴走したり、あげくに尊い命を奪ったりと、なんともいやな出来事が多かった。

そんな中、今年最後の大晦日に一服の清涼剤ともいうべき出来事があった。それは年の瀬も押し迫った29日、3人の若者がふらりと店に入ってきた。十割蕎麦を食べ終え、支払いの時に「とても美味しかったので、年越し蕎麦として実家のお土産にしたい」という注文をいただいた。聞けば東北大に学ぶ、富山と大阪出身の学生さん。富山の学生さんは31日朝8時頃、大阪の学生さんはお昼頃との約束で店を去っていった。しかし、約束の今日は冒頭に書いたような大雪。これではとてもお土産どころではないだろうと思いながらも蕎麦を打っていた。そしたら朝7時ころに電話があり、約束の時間に遅れるかもしれないが必ず寄りますとの事。1時間くらいたった8時すぎ、雪だるまのようになった車で彼はやってきた。別に無理して来ることはなかったのに、と声をかけると何事もなかったかのように「約束ですから」。

その一言に、私の胸には熱く込み上げるものがあった。大阪の学生さんも約束のお昼すぎに寄ってくれた。早く実家に帰りたい一心のその中で、大雪にもかかわらずこの田舎の年寄りと交わした約束を守ってくれた若者たちに感謝し、故郷へ向かう若者の後姿に道中の安全を祈り、胸の中で手を合わせ見送った。夕方4時すぎまで包丁を握りっぱなしであったが、さわやか、かつ嬉しさだけを感じた平成17年最後の日であった。

 

2006年1月1日

 

平成18年元旦。

今朝はゆっくりと8時過ぎに起床。すぐに薬箱から絆創膏を取り出し手指と足2箇所に貼った。老体になると脂分がなくなった証拠なのかと思う。家族からは「毎日米の脂を飲んでいるくせに」と言われるが、なるものはどうしようもない。元朝参りを済ませて年賀状の書き方と整理。いつしか年賀状は新年の正月3ヶ日に、ゆったりとした気分で、新年を祝いながら書くようになった。師走は忙しいということもあるが、やはり新年の気分になることができないからである。昨日の早朝3時からの包丁握りっぱなしの影響で筆が思うように進まない。昨日の学生さんとの出来事で、心はさわやかだったが、体にはやはり疲れが残っていた。元朝参りは近くのお不動さん、権現様、そして姥神様へ。自分の体が丈夫なうちは、わざわざ遠くへいかずとも、地元の神様を大事にしてお参りしたい。お不動さんの湧き水は年間を通して平均して同じ。この水を使って蕎麦を打っているからこそ、多くの人から美味しいと言われる所以なのだと思う。滝の中のお不動さんに向かい「今年も妥協せず自分なりの蕎麦を打ち続けたい」と心に誓った。

 

 

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