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2006年7月30日

 

村田町商工会による「たまゆらのそば農作業体験者募集」に、なんと約70名の参加希望があった。今日30日が農作業の体験日だったがあいにくの雨模様。畑の状態が良くなかったので、急遽大き目のポットを用意。増田商工会会長から参加者一人一人に種子を差し上げ、それぞれのポットに種子をまき、成長は各自家庭で楽しむこととなった。最後に地域通貨(たまゆら)を参加者全員にプレゼントし、その後そば汁などで舌つづみを打った。この日多忙にもかかわらず町長さんも駆けつけ、参加者への御礼と感謝を述べられ、皆さんと楽しい一時を過ごしたのである。これからもそばの花見会や収穫祭などの行事があり、参加者にはざるそば一杯無料の(たまゆら)が貰えますので、是非参加してみては……

 

詳しくは、村田町商工会 0224-83-2267 

             fax  0224-83-5830

mail muratafs@ji.jet.ne.jp

 

2006年8月8日

 

今年の夏は変だ!真夏に咲く土用ゆりが、秋にさくコスモスと一緒に咲いているではないか!

が、今日は立秋だから当たり前かもしれないが今まではこんな事はなかった。7月中は毎日雨、8月に入った途端に30℃を越える真夏日の連続。「仙台七夕には雨」というジンクスも今年は当たらなかったから、やはり今年の夏は異常か?

異常といえば自然界だけでなく人間社会でも私には理解のできない事がおきる。先日、特養老人ホーム職員が女性入居者に対する暴言という事件があった。暴言をはいた職員の行為は当然許されないことではあるが、私自身年老いた寝たきりの母を抱えているので、介護にあたる方々の大変な苦労は身にしみて感じているし、訪問介護に来ていただいている方への感謝は常々忘れてはいない。介護を仕事としている多くの方は献身的にやって頂いていると思うので、一部であれこういう人がいることは残念でならない。もう一つ自分の心にわだかまりがあるのは、テープの隠し撮りによって行為が発覚したという事。新聞記事からは詳しい事情はわからないが、正直悲しい気分にさせられてしまった。止むに止まれずと思うが、ここに至るまでに施設との話し合いの機会がなかったものか?最近は安易に施設に預けてしまう家族も多いともいわれている。「相応の料金を払っているのだからやってもらうのは当然」という気持だけでなく、大変な介護を自分達に変わってやって貰っているという感謝の気持は忘れてはならないと思う。白石市の斎川にある「甲冑堂」を思い出した。介護をする人、お願いする人それぞれが、ここにまつわる由来を少しでも理解すれば、介護を受ける本人が一番喜ぶであろうと思った。

2006年9月9日

今年も毎日のように孫たちが遊びにきてくれ、夏休みの間我が家は毎日賑やかだった。仲良く無心に遊ぶ姿をみるとつい仕事の疲れを忘れさせてくれる。と同時に20年後この孫たちはどんな人生を歩むのだろうか?無邪気に遊ぶ後ろ姿を眺めながら、ふとそんなことを考えた。9月に入って、地元誌記者の小島さんと宇都宮さんが『たまゆらの蕎麦』の取材に訪れた。さっそく生産組合の人と一緒に蕎麦の花畑などを案内してまわった。私が蕎麦屋を開いて19日で満2年となる。「自分の心をこめた蕎麦を打ちたい」という想いだけで始めたが、当初どうなるのか不安で一杯であったが、気がつくと『たまゆらの蕎麦』を町の特産品として育てるべく『たまゆらの蕎麦生産組合』ができたり、いろんな蕎麦の催しに参加させてもらったり……感謝、感謝の気持で一杯である。私を取り巻く多くの人たちのお蔭で『千寿庵』が成り立っている。もちろん私の打った蕎麦を食べに来てくださる、お客様一人一人への感謝の気持は忘れない。週一度の割合で来店の菅井さん、大学で難しいことを研究している黒木さん、農協の薬屋さん他、蕎麦にこだわりの常連さんも来店してくれる。そういう方々との、食事後の感想から四方山話まで、私にとっては全てが勉強である。お客様の様々の声から「蕎麦はすする物ではなく噛む物」を基本として、色々と工夫することが私の楽しみでありお客様との話題の材料ともなっている。今の蕎麦をみると、開店当初の蕎麦は何だったのだろうか?と思う。私の打つ蕎麦も結局は多くのお客様によって育てられている。蕎麦の一つ一つに心をこめて打ち「蕎麦という食べ物ではなく、私の心という蕎麦を食べていただきたい」これからもそんな気持で接していきたい。毎週来店の某銀行の支店長さんが転勤となった時の寂しさ、そして今回セブ島へ行って来年の5月まで帰れないというバイクの大久保さん。色んな方々との出会いや出来事が私の蕎麦を育ててくれたことに感謝しつつ、又多くの方との新たな出会いに期待しながら蕎麦を打ち続けたいと思う。

2006年9月25日

閉店間際、暖簾ごしに覗き込む一人の男性。やがて意を決したように静かに入ってくる。私も「いらっしゃい」と相手を見た瞬間は言葉が出なかった。二人しばらくお互いを見つめ合う。やがて「ああ佐々君」「イヤー!千ちゃん」。声と同時に、田舎の手と都会の手が固い握手。訪ねてくれたのは、今から50数年も昔、村田第一中学校(別名、相山中学校)での同級生だった。「校歌」「仰げば尊し」「蛍のひかり」そして「君が代」を歌ったあの卒業式で別れて以来の対面であったが、思い出すのに何分もかからなかった。(今は一部の反対から歌わない卒業式もあると聞く、なんとも寂しいことだ)おそらくあの中学時代の思い出が強く残っているからであろう。1クラス約45名、5クラス計約250名の同級生、名前と顔はすぐ一致しなくても「君の名は」と共に懐かしく思い出されるのだ。地元在住の同級生が発起人となって、70歳の才祝の時、喜んで駆けつけてくれることを約束して、つきない話に別れを告げた。

 

2006年9月25日

世の中は道こそありて平和なり、ルール守りてお互い楽し。

先日、申請許可の手続きで宮城県大河原土木事務所を訪れた。手続きを済ませ帰ろうとしたとき、何気に事務所を振り返ると、合同庁舎の屋上に宮城県の旗と日の丸が、静かな風になびいていた。今、教育現場で日の丸と君が代が揉めているという。人間は知識と文化が進むと多種多様な考え方が生まれ、しかも自分の権利ばかり主張する輩もでてくる。自分の権利ばかり主張しだしたら、まとまりがつかない世界で一番住みにくい国、日本になるのではないだろうか? そんな思いにかられながら合同庁舎を後にした。

 

2006年11月2日

「農協の薬屋さん」の愛称で親しまれてきた石川さん。仕事最後の日、奥さんと一緒に訪れてくれた。農協を退職してから第二の人生を薬と共に今日まで歩んできたとのこと。

終戦直後、仙台と山形を結ぶあの笹谷峠を、木炭自動車での荷物運送に励んだ時の思い出など、食事の後にお茶を飲みながら色々と話をしてくれたものだ。かつてNHKで「人生読本」という番組があったが、何かしらそれと重なりあわせていつも話しを聞いていた。

それが、今日を最後に今までのようにお越し頂くことができなくなるのかと思うと、薬屋さんの過ぎし人生雑談をいつも聞かされていたことや、元気な顔がもう見られなくなる寂しさで、「時々は奥さんと二人で遊びに来て下さい」と言うのが精一杯であった。

『としななご(75) 健康運ぶ薬屋さん 過ぎし人の生 語ればくすり』

 

2006年11月15日

タオルの鉢巻と腹掛けを普段の仕事儀着としている私だか、この日はネクタイと背広に着替え、ダムの町は七ヶ宿町活性化センターで行なわれた行事に、私が所属する団体の一員として参加した。七ヶ宿町では、歌舞伎で見るような独特の字体を使って、役場や地名などを昔の旧い呼び方で表記している。旧くして新しい街づくりを目指していると聞いた。その珍しい看板の前で参加した5名で記念撮影。

2006年11月27日

幅広い味覚と豊富な知識、そして情報収集力をもって来庵してくださる黒木さん。まだ行った事もない蕎麦屋さんや蕎麦処でも、黒木さんが語りはじめると、なんだかその場所にいったような雰囲気になるし、有名蕎麦処のおいしい蕎麦が目前にならんでいるかの如く感じられるから不思議だ。先日は奥さんと二人で来庵してくださった。今度、山形のそば処に案内したいと言う言葉に甘える事にした。

さっそく本日、山形は大石田町のそば屋さんを訪れた。山形の蕎麦というと、黒味がかった少し硬めというイメージをもっていたが意外だった。二人での蕎麦談議は美味しさも食感も格別であった。

 


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