主のひとり言V

 

ひとり言其の十七

 

ひとり言其の十八

 

ひとり言其の十九

 

ひとり言其のニ十

 

ひとり言其のニ十一

 

ひとり言其の二十ニ

 

ひとり言其のニ十三

ひとり言其の二十四

2020年(令和2年)4月5日

 

よく異常気象だと言われているが、それが後ろの川の状態をみればはっきりと判るのだ。小学生だった頃は、川の流れで水泳ぎもしたし、お彼岸の頃になると大きな平べったい石の下に大きな黄色いイチゴのような見事なカジカの卵があったものだ。今はカジカもウナギもいなければ水量も少ない。昔はこの石の頂上部分の青味がかったところまで小石や砂があったものだが、近頃の大雨でバケツをぶちまけたような濁流に流されて、小学生の頃から見ると約1mも川底が深くなったような気がする。穏やかで自然の恵み豊かだった川の表情は一変したようだ。一度にどっと流れてくるのは上流が雑木林でなく杉山の為保水力がなくなったことが原因だと思う。雑木林を坊主にして杉や松を一生懸命植えた罰として、動物の餌がないから里に降りてくるし、降ればどっと水が出て洪水となる。自然の営みを変えようとしたからなのかもしれない。

ある時病院の薬局でテレビを見ていたら、「美味しい蕎麦を提供するために行っている事は何でしょうか?」との問いかけに対してのお店の主人がいろいろと答えていた。最後にお店の主人が「茹で汁をまんべんなく取り替えている」と話しているのを聞いて、お蕎麦は美味しいが蕎麦湯は白湯と同じではないか? 手打ち蕎麦屋の茹で汁は最後になればなるほど、とろりとしたその旨さはそばよりも美味しいものなのだ! 昔民話の里にいた頃に、蕎麦を作るときに少し塩を使うことによって殺菌効果と保存効果の二つがあると教えられた。それなりに蕎麦を作っていくと、最後のほうのゆで汁はなんかしょっぱい感じがした。そんな事もあり今は塩をまったく使ってないが、あのお店の主人が何度となく茹で汁を変えるということは、手打ちそば風に作られた機械製麺なのかもしれない‥となんとなく自分でもわかるような気がした。

 

 

“つゆ少し 落とした蕎麦湯を口にする とろりとすするこの美味しさよ”

2020年(令和2年)6月15日

 

新型コロナ感染予防のため1ヶ月ほど休業し5月12日から再開した。ぼちぼちではあるがお客様も来店してくれてお互いに営業再開の喜びをかみしめた。

その中でも一番嬉しかったのは、以前度々訪れてくれた浦霞の名誉杜氏平野さんのお孫さんとお母さんが来店してくれたことだ。亡くなってもう何年になるだろうか、お孫さんから色々と平野さんのことを聞かされて、懐かしくあの時の思い出を一人偲んだ。帰るときに平野さんから頂いた前掛けを締めた姿の写真が入った暖簾の前で、お孫さんと二人で思い出を込めての一枚を撮らしてもらった。

土曜日曜には以前のように多くのお客様がおいでになるようになった。約1ヶ月ぶりの蕎麦打ち作業は体にも負担がかかったのか、朝方の起床時に右肩がひどく痛み、それに伴って左側の腰の部分にも痛みを感じるようになった。体全体が連動しているのかなと思いながら、何かいい方法はないかと考えているうちに思い出したのは蕎麦道具カタログの中にあった蕎麦切り機、さっそくそれを注文。伸ばすのは最初綿棒でそして最後の仕上げは掌で何遍も調整しその上で蕎麦切り機にかけて切るのであるが、きれいな仕上がりをみてもっと早く使えばよかったと思った次第。

蕎麦切る手を休め遠くの方を見ていると、雷のような音を立ててでっかいオートバイの一行9人が駐車場に入ってきた。ヘルメットを取ったら思いのほか年配者の方だった。バイクといえばてっきり若い人たちと思っていたが、いずれもいい年配の人たちだったので幅広くオートバイ愛好家はいるものだと感心。のれんの前で、一枚撮らせてもらった次第。

 

 

“雷か 地響きたてて やってきた 年若くなく みなオールドパワー”

2020年(令和2年)7月6日

 

「ボヤーっとして、何の夢みてんの」、と家内に声かけられハッとする事があるこの頃である。昨年末から入退院を繰返しながら願い虚しく7月5日帰らぬ人となり、家内と二人で最後まで別れを惜しんだその人は「ひとしさん」と呼ばれていた。

長く務めた町議会議員生活を地域のために尽くしたいという想いから任期途中で辞退。まず平成15年に立ち上げたのがたまゆらのそば組合。地区内外に多く散在する遊休農地に蕎麦を植え付け、それを利用して蔵の町並みで食の祭を催し、今では陶器市工芸市と並んで町商工会の秋三大イベントと呼ばれるまでになった。

議員在任中は様々な役職を歴任、また町の社会福祉協議会会長も兼任、そして議員辞退後は町の商工会理事、副会長、会長を歴任し、その企画発想力はすばらしいものであり町の発展に大きく貢献したといっても過言ではないと思う。これからのまだまだ多くの夢を残して帰らぬ人となった事は残念でならない。自分が民生委員として任期を全うすることができたのも、「千寿庵」を大きく下支えしてくれたのもその人「渡邊人志」さん、74歳の若さであった。

そんなある日、ひょっこりと宇都宮記者が来店してくれた。「千寿庵」が開業してまもなく、我家の寒ざらし蕎麦の乾燥風景その他について色々と紹介してくれたのがきっかけとなり、今では寒ざらし蕎麦が仙南地方の春彼岸の風物詩となっているのも宇都宮記者のお陰である。嬉しさと感謝の念をこめて暖簾の前での一枚となった。

毎日の生活では悲喜交々色々と起こっているが、それを自分の心で消化、生きる力となっているのかと思いながらも、今回の九州地方の7月豪雨災害には胸がいたむ。今すぐにでも駆けつけて手伝いたいと思う気持ちと、一日も早く元の生活に戻られることを心から祈るばかりだ。

 

“被災地へ 思いは馳せる胸の内 行くに行けないコロナと遠路”

2020年(令和2年)8月22日

 

先月の28日で満80歳となった。今までご愛顧いただいたお客様方に感謝の念とこれからもよろしくご指導いただきたく、1食1000円をオール800円として8月16日まで感謝の営業を続けた。この間お金では得難いもろもろのことを感じ、そしてまたお客さんとの今まで以上の深い会話をすることも出来た。考えてみれば、我が家に居ながらにして遠くのお客さんや全然知らない人たちから、そばを通して得難い知識人生訓を教えられることもあり、何かしら嬉しさのあった約2週間だった。

最後の16日、水戸ナンバーのお客さんと会話したら、以前にも旅の途中で寄ったことがあり、今回も是非との思いで寄らせてもらった、と嬉しそうに語り掛けていただいた。そして暖簾の前で自分を真ん中に写真を撮っていただき先日送ってもらった。了解を得たので会話した色々な思いを込めて主のひとり言に挿入した次第。

 

“尋ね来た 遠路の方と 会話する 話弾みて 時のたつのもつい忘れ”

2020年(令和2年)10月17日

 

蕎麦に思う‥

蕎麦屋を開業して早16年、時折なじみのお客さんと蕎麦は食べるだけでなく、人と人とをそばに引き寄せるなにかがあるのではないかな?と会話することがある。

実際、蕎麦を通していろんな人たちと顔なじみになり、各地のお土産話を聞いたり手作り作品や貴重なお宝を頂くこともある。先日、庭先のアケビを見かけて「絵をかきたい」という奥さんに差し上げたら、本物のアケビかと思うほどの絵を持参して来店された。習っているのですか?と杉山さんご本人に聞いたら「自己流です。」と言う。

そのなかで、今も大事にしているものが自分の人生の師たる人からの贈り物であり、一生大事な宝物にしてある。人生の師たる竹内様は郵政一筋、最後は仙台中央郵便局局長で退職され、今も講演活動や文筆活動と幅広く活躍されている。その竹内様と蕎麦を通して知り合って約10年、頂いた手紙の返事を書くときは傍に漢字辞典を置きながら、我が年寄りのいい勉強をさせていただいている。その竹内様からの絶対他では入手できない宝物をいつまでも忘れないために、ここに記録として残したいと思う。

 

“たおやかに 細く長くいつまでも 通う心は 蕎麦でのご縁”

2020年(令和2年)12月13日

 

“初物を食べると75日長生きする”と子供のころ婆さんがよく言っていた。いまでは夏に冬物、冬でも夏物が食べられる時代になって、ほとんど季節感を味わうことができない。その中ではっきりと季節を感じるものにお米と蕎麦があると思う。収穫したばかりのお米のなんともいえない香り、そして年を越してからのお米は成熟した味わいがある。いくら保管施設が完備しても、玄米そのものが成熟するから新米の香りがなくなるのは当たり前だと思う。

同様に収穫したばかりの新蕎麦は製粉すると粉に青みを感じ、玉練りをする時には手に何となく柔らかさを感じる。それも年を越せば完熟した蕎麦の味わいとなる。そこでもう一度季節感を味わってもらう為に昔の人が考えたのが寒晒し蕎麦である。1月の大寒の頃に冷たい水に約1週間ほど浸けた後に引き上げ、春先の柔らかい日差しと寒い北風に晒しながらじっくりと自然乾燥させ、手間暇かけて製粉したそば粉を使って提供するのが寒晒し蕎麦である。これも3月の中旬から長くて5月初旬で終了としているのが我が家の寒晒し蕎麦、季節を味わう食べ物である。

11月初め蔵王麓の遅い紅葉を観た後、新蕎麦の看板を見かけて蕎麦屋さんに立ち寄った。店内でメニュー表を見たら“寒晒し蕎麦もあります”とある。注文を取りに来た人に聞いたら、新蕎麦を寒晒しにしたので新蕎麦も寒晒しもあんまり違わないと言う。自分の感覚では理解しえない思いで食べてきた。

11月末、孫に乗せられて福島の蕎麦研修に行った。そこでお店のこだわりという「そば三昧」を注文。孫に聞いたら“味わいの違い何となくわかるような気がする”という。孫も違いを感じた「そば三昧」をだす蕎麦屋さんの腕前に感動しながら、先日の蔵王麓の蕎麦屋さんとの蕎麦に対する想いの違いを感じたものである。その余韻に浸りながら、せっかく会津まできたので白虎隊士の墓にお参りして帰ってきた。

 

 

“義を通し 若き命を散らしたる 哀れ悲しき 涙を捧ぐ”

2021年(令和3年)1月11日

 

遅ればせながら 新年明けましておめでとうございます。

昨年中のご厚情に感謝申し上げ、本年もよろしくお願い申し上げます。

コロナにあけ、コロナでくれた昨年。色んなことがあったが、自分にとって蕎麦屋冥利に尽きることがあった。いつも来店してくださるプラモデルの大沼さんのお孫さんに向かって「どれ、じいちゃんのとこにおいで」と言ったら、喜んで抱っこに応じてくれた。そのそぶりにこちらも嬉しくなって2人の写真をカメラに収めてもらった。子供好きな自分は、時折赤ん坊を抱いた親御さんに向かって“抱っこ”と言って手を出すと、“うわーん!”と泣き出す赤ちゃんもいる。大家族の中の赤ちゃんと、両親二人だけに大事に育てられた赤ちゃんとでは多少の違いがあるのかな‥これがそのまま大きくなって、学校に行くのが嫌だとか、家にこもったりすることの原因でもあるのかな‥と考えた出来事だった。

元旦には雪となり孫たちはチョコと大喜びだったが、日本海側の大雪には、こちらの我々には想像しえないものがあると思った。なにはともあれ、日の丸の旗を立てて成人の日を祝い、一日も早いコロナの終息を願った。そんな時に体格のいいお客さんを見かけ、このお客さんの力でコロナを吹き飛ばしてもらいたいと願いつつ、暖簾の前でカメラに収まった。

 

 

 

“願いは一つ コロナの終息願いつつ 白地に赤の国旗に祈る”

2021年(令和3年)2月21日

 

今年の冬はいつになく寒かったし雪も降った。私が人生の師と仰ぐ竹内様も、青森から仙台に昭和35年に定住して以来初めてだという。その記念にと自動車のフロントガラスに描いた自分の似顔絵があまりにもそっくりな見事な出来栄えであった。これは永年友情を深めておられる青森の山谷画伯からの以心伝心が描かせたのかと感心したのである。竹内様は地元青森の郵便配達から始まり、定年時には仙台の中央郵便局長にまでなられた御方。郵政一筋に歩んだその苦労、努力の結果が認められ国から勲章を頂き、現在も青森の県人会長をはじめ、町内会や県工のラグビー部の追っかけ応援団長として元気に活躍されている方なのである。

私が人生の師と仰ぐ理由の一つに、若い時に冬期集配請負人として地元郵便局に約30年お世話になった時の最初の郵便局長さんがどことなく竹内様に似ていることもあるのかもしれない。蕎麦を通して竹内様をはじめ青森の山谷先生、言葉の遊び上手 伊奈かっぺいさんらとも年賀の交換などをさせていただいている。

先日、京都で蕎麦を主として食堂を経営している、物味遊山を名乗る中島さんと語らうことができた。しばらくの立ち話のなかで自分なりに“なるほど‥”とうなずくことがたくさんあった。“また機会があったら会いましょう”と別れたが、自分なりに多くの共感を得られたのはありがたいことだ。

蕎麦打ちの最中、ちょっと用件があるというお客さんがいた。何の事だろうとお話を伺うと、今回地元の柴田高校が初の甲子園出場となったのでカンパをお願いしたいという事であった。同じ仙南地区からの代表という嬉しい話に二つ返事で了解した。

          *写真は柴田高校ホームページからお借りしました

 

“嬉しいぞ 初の甲子園 柴田校 勝つも負くるも ベストを尽くせ

 

 

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