主のひとり言V

 

ひとり言其の十七

 

ひとり言其の十八

 

ひとり言其の十九

 

ひとり言其のニ十

 

ひとり言其のニ十一

 

ひとり言其の二十ニ

 

ひとり言其のニ十三

ひとり言其の二十四

2021年(令和3年)3月14日

 

中学校を卒業してから早や65年近くになる。今年の年賀状のなかに“仕事を辞めました”や寒中見舞いで“昨年春 夫が亡くなりました”などのお便りを拝見すると、それぞれもう80歳からになっているんだなあ、と改めて思い知らされた。中学時代のあの先生の顔や同級生との色んな事が、ついこの間のように思い出す。あの頃は一クラス平均40人位で5組まであってだいぶ賑やかなものだった。皆それぞれに人生を歩み、卒業後一堂に会したのは平成13年の還暦祝いの時だった。

中学卒業時から今日まで、自分はどんなことをしてきたのだろうか?農閑期の12月から4月まで地元郵便局の集配請負人、養鶏・養豚・酪農、弁当を持っての日雇い工事現場に大工さんのお手伝い等、実に様々なことを体験してきた。今でも思い出に残るのは昭和50年の葉たばこ耕作で、仙南地方でも5本の指に入る収穫収益を上げたことだった。葉たばこ耕作が下火となって最後に勤めたのが国道の維持工事の会社。そこを退職後訓練校で約1年、卒業と同時に地元にできた民話の里に縁あって勤めることとなった。そこで習い覚えた蕎麦打ちを基にして、民話の里を定年後に蕎麦屋を開業し毎日精をだして今に至っている。

3年間学んだ中学校の遠景写真と当時の卒業記念写真、そして平成13年の還暦祝いの写真を見ながら、その昔を振り返ってみた。

          

“懐かしき 相山中学学び終え 八十路を過ぎて 思いもあらた”

 

 

2021年(令和3年)6月30日

 

朝早く起き今日一日分の蕎麦を切り終えてから年2回の定期検診に出かけた。病院での待合室では今回の主のひとり言の原稿を見直しながら順番を待った。

5月連休中の3日間は臨時休業とし、初日の4日は息子の運転で従業員ともども海を観に石巻方面に出かけた。自分の希望に沿って最初に訪れたのはサンファンバウティスタ号。この帆船ではるか彼方のローマ目指して航海を行った支倉常長以下乗組員一同の心意気に涙が出る思いであった。しかも目的達成して帰国してみれば、鎖国という余りにも無常な事ではなかったか。もし伊達政宗が天下をとっていたら‥そんな事を思いながら次の目的地である牡鹿ホエールランドで食事をとった。一同久しぶりの上げ膳据え膳、しかも海を眺めながらのお魚の料理は一層のおいしさを感じたのかもしれない。

さてその後の行き先は自分には教えてもらえない。海を眺めながら新緑の道を走っていたら、あっちの右手に見えるのが“何度かお参りすれば一生お金に困らない”と聞いた金華山だった。その後整然とお店がならぶ女川のハマテラスに立寄った。ここで観た女川交番の無残な姿に津波の恐ろしさ改めて実感したのであった。

帰りの車中はいつしか皆さん静かになった。私も外の景色を眺めながら、3月の異動で転勤になった商工会の一人の職員を思い出した。毎年の年末決算の手続きや今回の国の持続化給付金並びに町の助成金の手続きなど、自分のことのように心配してくれ指導を受けたのであった。感謝の気持ちと新任地での尚一層の活躍を念じながら商工会の前で写真を撮らせてもらった。

 

 

“永年の業績と苦労に思いを込め 感謝の念で最後の一枚”

2021年(令和3年)7月24日

 

濃厚接触ということ

お馴染みになったお客さんとの立ち話で“蕎麦は食べるだけではなく人と人とをそばに引き寄せる何かがあるのではないか‥”と話し合うことがある。それが現実となり今でも目に見えないが、いつもそばで自分の人生の師匠たる人との出会いとなったのもまた蕎麦なのである。

開業して間もないとある日、二人のお客様がおいでになった。天井に下げられた青森の絵凧を懐かしそうに眺めながら蕎麦を食している。伺うとお二人とも青森県人とのこと。それ以来いつの間にか手紙のやり取りで、なにかとご指導をいただいているのが今の竹内様であり青森在住の山谷画伯である。

その竹内様からある日、“そのうち戸アというお巡りさんが令状を持っていくかもしれないから気をつけろ‥”と脅し文句みたいなハガキが届いた。竹内様が仙台中央郵便局長時代、その下で働いていた戸アさんが一転警察官となり、仙北の花山番所から村田の駐在所に転勤になったとのこと。そのうち行くかもしれないとのことだった。それ以来、戸アさんが勤務する村田駐在所が毎月発行する広報誌を、竹内様を通じて戸アさんの実家がある広島のお父さんへ送ってもらっている。竹内様は忙しい人でなかなかお見えになることはないが、先の5月3日ご家族お揃いで我が家へおいでになった。その時たまたま町内のパトロール中の戸アさんが我家に立ち寄り、竹内様一家と対面することができた。我家の蕎麦を通しての竹内様と戸アさんの濃厚接触は、花山番所以来初めてだったと思う。お二人とも久しぶりの対面に懐かしそうに話し合い、最後に竹内様ご一家と戸アさんを交えての一枚となった。

 

“久方に 会いし部下との対面に 話が弾み 接触濃厚なり”

2021年(令和3年)8月15日

 

夢か現か幻か

先日の午後の暑い盛り、一息ついているところへ孫が“じいちゃん 電話だよ”といって受話器を持ってきてくれた。電話に出ると先月ご家族おそろいで来店された方からの悲しい知らせであった。美味しそうに食べて頂いた後に暖簾の前でご家族一同の写真を撮らせてもらったが、あの時の穏やかでにこやかな表情のお婆さんが亡くなったとのことだった。

暑い最中、短いやり取りだったのでしばらくはなんだか信じられなかった。それでも仏壇の前に飾ってほしいと、花屋さんから仏花を送ってもらった。その後、送ってよかったのか?亡くなったことは本当だったのか?電話いただいた時は暑い最中、自分の頭もぼうっとしていた時だったので、改めて電話で確かめ香典を送った。

今でもあの時のにこやかなお顔、そして手元にある写真をジッと見つめると、語りかけてくるような思いを抱くのだ。知らせを受けたのちに電話で問い合わせしたことは申し訳ないことだったが、今こうしてじっと見つめる写真からは、語りかけてくるような気がしてならない。

 

“思い出す ご家族揃ったあの時の やさしさにじむ 母の顔”

2021年(令和3年)8月25日

 

バナナが飴玉になった話

先日のこと、背後に人の気配を感じて振り向くと兄弟のような子供さんが二人、その後ろにお母さんらしき人が付き添った形で立っていた。「子供たちが犬と遊んだ時に頂いたバナナのお礼に、飴玉を買って行くと言うのでやってきました」 

そう言われてみると、いつだったか我が家のチョコとその子供さん二人、楽しそうに転げまわって遊んでくれていた。嬉しくなった自分は「チョコと遊んでくれてありがとな」と、お礼のしるしにバナナを手に持たせたのを覚えている。

その子供たちがバナナのお礼といって差し出す飴玉の袋。「じいちゃんは飴玉ではなく別なものだったらいいんだけどね」とお母さんの言葉。自分にとっては飴玉であっても子供たちの気持ちを思うと無性に嬉しくなり、伸ばした麺体にこぼれるものがあった。喜怒哀楽に弱い自分は、演歌そして講談、浪曲などの耳からの電波でも、その情景が頭の中で動画となって映し出されるのだ。そば切る手を休めて感謝の念を込めて二人をカメラに収めた

 

“飴玉になって バナナがかえってきた チョコと遊びし子供が二人”

2021年(令和3年)9月14日

 

値上げのお願いとひとり言

民話の里を定年の後、大工さんの手伝いなどを経て平成16年9月思いを膨らませていた蕎麦屋を開業することが出来た。それ以来皆様方が気安く訪れ、また蕎麦本来の味を出すべく研讃を深めながら自分なりの蕎麦を提供してきたつもりです。その間、玄蕎麦や小麦粉などの度重なる値上げ、そして二度にわたる消費税アップも気にせず値段を設定してきました。 残念ながら今回諸般の事情を踏まえて、従来の価格に100円をプラスせざるを得ない状況と相成りました。大変心苦しいことですが、何卒事情をお汲み取りの上、宜しくご厚情の程お願い致します。

さて話は変わりますが、蕎麦打ちの色々な状況のもとでも対応する事や、蕎麦の奥深さを知ることが出来たのは、母校である村田高校の福祉系列の生徒さん方との常盤園サニ−ホ−ム、そして村田町の泊松園相山等の老人福祉施設への蕎麦打ち訪問でした。前日に生徒さん方が蕎麦打ちの練習をし、当日はお年寄りの見守る中で生徒さん方がグループに分かれての蕎麦打ち作業。それを見てまわる自分は汗をかきながらの作業ではあったが、それぞれに得難いものがあった。若い生徒さん方を見るお年寄りの方々は、まるで孫が来て蕎麦をご馳走してくれているような嬉しい表情で食べている。そんな光景を見ると私の汗も心地良いものだった。当時引率されていた先生が村田高校を離れて十数年、現在広瀬高校に勤務されている酒井原先生が、旦那さんと蕎麦打ちをしたいと先日久しぶりに訪れてくれた。あの当時の若々しい先生の姿を見て自分も一挙に若返った気分になり先生の蕎麦打ちを手伝った。村田高校の生徒さん方と色々な体験をさせてもらったことが今の蕎麦屋につながっているのだと思いを深め、懐かしい母校の思い出にひたった。

 

一 蔵王の峰は気高くも映る我らが学舎に 希望の光輝けば あぁ向学の血は燃ゆる

二 灯ともる窓に書を読む勤労我ら意気高し 星影踏みてひたすらに尋ねん使命我が理想

三 清らに巡る松尾川四季麗しき相山の 自然の御霊宿しつついざ励みなん学びなん

 

 60数年前の校歌 時々ハーモニカ吹きながら 懐かしんでいます

2021年(令和3年)10月17日

 

だいぶ昔のこと

家内が体調不良で入院すること約2週間、その間は休業としました。せっかくお越し頂いたにも係らず空戻りさせてしまった多くの方々には大変申し訳ない想いで一杯です。

多くの皆様方からの励ましのおかげで10月15日から営業再開しました。

この日は晴天にも恵まれて、お馴染みのお客さんやらで平日ではあったが賑わう一日、家内も一生懸命窯前を努めたことは自分にとっても嬉しいことであった。

家内が退院する日、病室に行ったら担当の看護婦さんは小学生の頃学校で蕎麦打ちを教えてもらったことがあると言う。話を聞いてみたら当時のことをしっかりと記憶してくれていた。思わず自分も20年も前のことだが、体験教室終了後校長室に案内され、校長先生から御礼の言葉を頂いたことを思い出した。看護婦さんに「蕎麦は食べるだけでなく、人と人を引き寄せる何かがあるんだよ」と話しかけたら「そうですよね」と言う。その返事を聞きながらお世話になったことに対してお礼を述べて退院の運びとなった。

 

“思い出す 彼女はあの時小学生 今ではその身 白衣の天使”

2021年(令和3年)10月24日

 

戦死した叔父を思う

この日は朝から晴れ。地元の干咾不動尊では飲食無しの御祈祷だけの秋の例大祭が行なわれ、手伝いには息子が出席し、自分は町の高台にある相山公園地内の昭忠碑と周囲の清掃作業に出かけた。今年の町の遺族総会に於いて賛成多数で解散が決まったが、心あるメンバ−が会長を中心として昭忠碑と周囲の清掃に励み、そののち心静かに焼香して手を合わせ、来年も体が動く限り清掃と参拝をしようと約束して解散した。

我が家にも叔父が昭和19年7月21日、中支方面において戦死と記された位牌があり、墓石にも同じように記されている。どんな人だったかは知る由もないが、27歳で若い命を散らした叔父を思うと、どんなに忙しくとも清掃作業と参拝は欠かすまいと思った。我が家の仏壇に毎朝焼香し、春と秋の彼岸とお盆には欠かさずお墓参りをしている。焼香と花を手向けながら、どんな思いで戦地に赴きどんな状況で亡くなったのだろうか、いつも思わずにはいられない。

今こうして平和に暮らしていけるのも、こういった幾多の方々の尊い犠牲があったからこそなのだと思う。いつかは青葉城にある県の護国神社や、夢でもいいから靖国神社へも参拝したいものだと思いながら、27歳で亡くなった顔も姿も見たこともない叔父を偲びながら焼香、参拝をしているのだ。

 

“顔すがた 我に覚えはなけれども 位牌に向かいて叔父をば偲ぶ”

2021年(令和3年)11月21日

 

コロナ禍での秋祭り

今年は全国的にコロナコロナですべての催し物などができず、我が村田町でも各神社の春と秋の祭り、秋の伝統的な布袋祭り、そして蔵の陶器市など、各種団体の総会事案はすべて紙面での総会となった。人と人の集まりができず、お互いのコミュニケーションもままならない。その中にあって我が姥ヶ懐地区では契約長の提案で、コロナ対策をしっかりやり、お神酒の代わりにお茶けでやろうという事になり、例年通り10月10日神主さんにお出でを願い秋祭りを実施した。

型通りの祝詞奏上、お祓いと神事を済ませたその後に、配られたのは赤飯パックとおまんじゅう、そしてワンカップと思いきや配られたのはジュース。普通なら全員でお神酒で乾杯となるのだが、多少お酒の好きな自分にとっては物足りなかった。甘党でもあったのでまんじゅうを食べてお祭り気分を味わった。早くコロナ収まって普通の生活に戻ることを祈りながらの秋の例大祭であった。

 

“神主さん お神酒の代わりに おまんじゅう 食べては祈る コロナの収束”

 

 

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